団栗の二つであふれ吾子の手は
今瀬剛一
今年の秋は、家の中のあちらこちらに団栗が転がっている。
二歳の娘が公園に行くたびに、
「はい、おみやげ」
と、拾った団栗を持ち帰ってくるからだ。
あれ、去年の秋はどうだったのかしら、と思い返してみたが、たしかに団栗は家の中に転がってはいなかった。
そうか、去年の秋はまだ歩きはじめてそれほど経っていなかった頃だから、団栗を拾う余裕なんてなかったのだ。
そう思うと、ずいぶんと成長したものだ。
おみやげのはずの団栗は、なぜか私の手を離れ、お料理の具になったり、お金になったり、お友達になったりしながら、家のあちらこちらに転がっては、私を悩ませてもいるのである。
団栗の二つであふれ吾子の手は
団栗と子ども。しかも団栗と子どもの小さい手というものの出合いは、さして新しい句でもないし、どちらかというと類想類句の域を出ないだろう。
けれどもこの句は、団栗を通して吾子の存在に触れている、そのアプローチの仕方がとても好きなのである。
団栗を二つ乗せただけでいっぱいになってしまう吾が子の小さな手。
「二つであふれ」には、親である作者の新鮮な驚きと、小さな存在に対する愛おしさが溢れている。
ふたつであふれあこのては
選ばれた言葉の響きも、じつにやさしく温かい。
そして、吾子の手に乗る団栗とは、命の力が詰まった実でもある。
芽を出してやがて大きな木へと成長する、そんな命の響き合いを、この句の背景に感じるのである。
(日下野由季)
【執筆者プロフィール】
日下野由季(ひがの・ゆき)
1977年東京生まれ。「海」編集長。第17回山本健吉評論賞、第42回俳人協会新人賞(第二句集『馥郁』)受賞。著書に句集『祈りの天』、『4週間でつくるはじめてのやさしい俳句練習帖』(監修)、『春夏秋冬を楽しむ俳句歳時記』(監修)。