嘘も厭さよならも厭ひぐらしも 坊城俊樹【季語=ひぐらし(秋)】

  嘘も厭さよならも厭ひぐらしも   坊城俊樹

 八月半ばの夕暮れから鳴き始める〈ひぐらし〉は、淋しさを誘う。子供の頃、親族が集まる賑やかな盆会が果てて、みんなが帰っていった後に「かなかな」の声を聞き、無性に哀しくなって泣いた。その声はやがて、長い夏休みの終りを告げる虚しさを想起させるようになった。

 掲句の〈厭〉という表記には「嫌」という意味もあるが、「満ち足りて飽きる」という意味も含まれる。これ以上の嘘もさよならも要らないということか。「いや」の繰り返しは、子供が駄々をこねているような印象も受ける。掲句が恋の句と思われるのは、〈嘘〉〈さよなら〉という表現だけではなく〈厭〉という表記のせいでもある。ひぐらしの声に別れを予感した恋人から、優しい嘘も再会の未来のない「さよなら」も「いや」だと泣かれたのだろう。恋人の心情になりかわって詠んだ句と理解しているが、恋の虚しさが強烈に伝わってくる。と同時に、面倒だけれども、愛しく、哀しく、感じていることも伝わってくる。それは、ひぐらしの「かなかなかな」という声が〈厭〉のリフレインにより響いているからだ。

 私の大学時代の友人女性は、海開きから盆過ぎまでの一ケ月間、関東近郊のリゾート地の海でアルバイトをしていたことがあった。当時まだ20歳ぐらいだった友人は、そこで出逢った地元の男性に口説かれ夢中になった。まめで優しくてどんな我儘でも聞いてくれる大人の男性だったという。アルバイト期間が終わり、一旦は東京に戻ったものの、その男性と一緒に過ごした時間が忘れられず、リゾート地に引っ越すことを決意した。

8月も終わりの頃、電車で二時間揺られて到着した海の街は、残暑の陽射しを浴びて色褪せてみえた。彼に買って貰ったアクアマリンのイヤリングを揺らしながら言った。「私、この土地で暮らそうと思うの。あなたも帰るなよ。ここに居ろよって言ってくれたでしょ」。一週間ぶりに逢う彼は、どことなく遠い人に感じた。「まだ学生なのだから、無理しないで東京で暮らしなさい。ちゃんと逢いに行くから」。夕暮れのカフェにひぐらしの声が流れ込む。彼は、静かな口調で「今日はもう帰りなさい。いきなり来られても困るよ」と言った。彼女が無言で泣きはじめると、「少し飲もうか」とため息をついた。店の予約をする時間が無かったからと言い、安い居酒屋で飲み、そのまま安いホテルに泊まった。彼は一晩中「必ず逢いに行くから、連絡するから、待っていてくれ」と言い続けた。だが、彼女の胸の中では、夕暮れに聞いたかなかなの声が鳴り続けていた。もう逢えない気がして、ただひたすら泣き続けた。

 相手の男性にとっては、夏季限定の遊びの恋のつもりだったのか、本気だったけれども飽きてしまったのかは分からない。友人がその男性と再び逢うことはなかった。秋学期が始まる9月の半ば頃には、懐かしい想い出に変わっていた。

 友人は美人だが、子供っぽく我儘なところがあった。男性からしたら、そこが魅力だったのだろう。無邪気な気持ちのままに刺激を求める夏には、そんな恋が心地良い。秋になれば、寄り添ってくれる恋人が欲しくなる。別れる時に駄々をこねられて、愛しく切なく想うことで夏の恋を終わりにしたのだ。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】
>>〔183〕天上の恋をうらやみ星祭 高橋淡路女
>>〔182〕恋となる日数に足らぬ祭かな いのうえかつこ
>>〔181〕彼とあう日まで香水つけっぱなし 鎌倉佐弓
>>〔180〕遠縁のをんなのやうな草いきれ 長谷川双魚
>>〔179〕水母うく微笑はつかのまのもの 柚木紀子
>>〔178〕水飯や黙つて惚れてゐるがよき 吉田汀史
>>〔177〕籐椅子飴色何々婚に関係なし 鈴木榮子
>>〔176〕土星の輪涼しく見えて婚約す 堀口星眠
>>〔175〕死がふたりを分かつまで剝くレタスかな 西原天気
>>〔174〕いじめると陽炎となる妹よ 仁平勝
>>〔173〕寄り添うて眠るでもなき胡蝶かな 太祇
>>〔172〕別々に拾ふタクシー花の雨 岡田史乃
>>〔171〕野遊のしばらく黙りゐる二人 涼野海音
>>〔170〕逢ふたびのミモザの花の遠げむり 後藤比奈夫
>>〔169〕走る走る修二会わが恋ふ御僧も 大石悦子
>>〔168〕薄氷に書いた名を消し書く純愛 高澤晶子
>>〔167〕約束はいつも待つ側春隣 浅川芳直
>>〔166〕葉牡丹に恋が渦巻く金曜日 浜明史
>>〔165〕さつま汁妻と故郷を異にして 右城暮石
>>〔164〕成人の日は恋人の恋人と 如月真菜
>>〔163〕逢はざりしみじかさに松過ぎにけり 上田五千石
>>〔162〕年惜しむ麻美・眞子・晶子・亜美・マユミ 北大路翼
>>〔161〕ゆず湯の柚子つついて恋を今している 越智友亮
>>〔160〕道逸れてゆきしは恋の狐火か 大野崇文
>>〔159〕わが子宮めくや枯野のヘリポート 柴田千晶
>>〔158〕冬麗や泣かれて抱けば腹突かれ 黒岩徳将
>>〔157〕ひょんの笛ことばにしては愛逃ぐる 池冨芳子
>>〔156〕温め酒女友達なる我に 阪西敦子
>>〔155〕冷やかに傷を舐め合ふ獣かな 澤田和弥
>>〔154〕桐の実の側室ばかりつらなりぬ 峯尾文世
>>〔153〕白芙蓉今日一日は恋人で 宮田朗風
>>〔152〕生涯の恋の数ほど曼珠沙華 大西泰世
>>〔151〕十六夜や間違ひ電話の声に惚れ 内田美紗
>>〔150〕愛に安心なしコスモスの揺れどほし 長谷川秋子
>>〔149〕緋のカンナ夜の女体とひらひらす 富永寒四郎
>>〔148〕夏山に噂の恐き二人かな  倉田紘文
>>〔147〕これ以上愛せぬ水を打つてをり 日下野由季
>>〔146〕七夕や若く愚かに嗅ぎあへる 高山れおな
>>〔145〕宵山の装ひ解かず抱かれけり 角川春樹
>>〔144〕ぬばたまの夜やひと触れし髪洗ふ 坂本宮尾
>>〔143〕蛍火や飯盛女飯を盛る 山口青邨
>>〔142〕あひふれしさみだれ傘の重かりし 中村汀女


関連記事