
仮りにだに我名しるせよ常陸帯
松瀬青々
(『鳥の巣』)
常陸帯とは、常陸国鹿島神社で正月14日の祭礼の日に行われる結婚を占う神事のことである。男女が想い人の名を書いた帯を神前に供えると、神官がそれを結び合わせて縁を占う。鹿島の帯ともいう。その歴史は古く、平安時代には「常陸帯」が歌ことばとして存在していた。平安時代に編纂された私選和歌集『古今和歌六帖』には、〈あづま路の道のはてなる常陸帯のかごとばかりもあひ見てしがな 紀友則〉と詠まれている。
現在鹿島神宮では、現代風にアレンジした常陸帯の祭を開催している。若い男女が受付で渡された帯に自分の名前を書き、神前に供えると、神官が「神縁の帯結び」の神事を行う。その後、結ばれた帯の名が告げられ、二人一組となった男女が協力し合い、歌を作って献上する。歌を詠むお見合いみたいなものである。私も若い頃に知っていれば参加したかった。
鹿島神宮のホームページの説明書きによると、常陸帯とはもともと神功皇后が腹帯を鹿島神宮に進納したものと伝わっているらしい。この帯は、応神天皇を身籠ったときの腹帯であることから現在も鹿島神宮の安産信仰の拠り所となっている。安産信仰がのちに、その前の事象である恋愛や婚姻を成就させる神徳があると考えられるようになったとのこと。
鹿島神宮は、タケミカヅチを祭神とし、古代には平定神として、中世には武神として信仰された。神功皇后の伝説は、武神繋がりで生まれたのであろう。
鹿島のあたりは、古代には渡来人が住みつき、やがて利根川から霞ケ浦を渡り筑波へ養蚕の技術を伝えた。〈筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも 『万葉集』〉。筑波嶺の上質な繭で織った衣よりも貴方の衣が着たいという内容の万葉歌は、恋仲になった男女が衣を交換する風習を詠んでいる。また、平安時代の催馬楽には、〈高麗人に帯を取られてからき悔する〉と謡われており、帯を取られるとは、男女の共寝を意味する。帯を交換してそれっきりだったということであろう。古代の風習を考えると、常陸帯は、もともと繁殖儀礼に関わるものだったのではないだろうか。それが新年にその年に結ばれる男女を占う儀式となったと思われる。恋の相手が神様によって決められてしまうのは、現在では理解しがたいが、昔はそれを運命と信じていたのだ。それでもやはり好きな人と結ばれたいという想いを考慮して、帯に相手の名前を書くことが許されたのか。そうすると、人気のある人は複数の帯に名前が記されることになる。角川『俳句大歳時記』の今瀬剛一氏の解説によれば、通常の方法の他に「女性がどの男と結婚しようかと迷った時、帯に男性の名を記して神前に置き、裏返った帯に記された男性と結婚した」という方法も記している。一人の女性を巡って男性同士が諍いになるよりは、神様に決断をゆだねた方が良いかもしれない。
作者の松瀬青々は、明治2年大阪市生まれ。本名は弥三郎。少年の頃より詩文と漢学を学んだ。第一銀行勤務時代に俳句を始め、明治30年、松山発行の俳句雑誌「ほととぎす」第4号にて虚子選に入選。明治32年1月号の「ホトトギス」では、正岡子規より「大阪に青々あり」と賞賛を受ける。同年、勤めていた銀行を退社し上京。「ホトトギス」の編集係に就く。ところが、翌年には「ホトトギス」を退社し、大阪に戻り、大阪朝日新聞社に入社。会計部に務めながら「朝日俳壇」を担当。明治34年、俳句雑誌「寶船」を創刊し主宰。後に「倦鳥」と改題。関西俳壇で重きをなした。昭和12年、狭心症により、69歳死去。生前出版句集に『妻木』、俳話集に『倦鳥巻頭言集』がある。死後、出版予定であった『鳥の巣』、近作として主宰誌に掲載された句を集めた『松笛』が出版された。
松瀬青々は、古季語、難季語を意欲的に詠んだことで知られる。青々の弟子に右城暮石、その弟子に茨木和生氏がいる。古来の風習や土着の風土を詠む姿勢は、現在「運河」主宰の谷口智行氏まで続いている。
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