
空風の中飼ひ猫の戻り来し
伊東法子
どこか寂しげで、ものの音さえ遠のくような空気の中に、小さな命がひとつ戻ってくる。
その瞬間の温もりを、そっと手のひらで包むような一句です。
待っていた時間、吹きすさぶ空風、
そして「戻り来し」という一言が、この句の核になっています。
過去の助動詞「き」の連体形が使われており、
出来事をただ叙述するのではなく、“思い返している過去”として響かせています。
つまり、猫の帰還は今まさに起こっていることではなく、
時間を経て、「あのとき戻ってきた」という静かな記憶として詠まれています。
その語感には、喜びの余韻と同時に、
「いまもその姿を思い出している」ような、やさしい回想の温度があります。
「空風の中」という冒頭の冷たさと、
「戻り来し」という過去の温もりが呼応しあうことで、
句全体が「寒さとぬくもり」「不在と再会」「孤独と共生」という対を成しています。
この句が教えてくれるのは、生命の肯定とは決して大仰なものではなく、
ただ「また会えた」こと、「生きている」ことを、一瞬でも心に留めることなのだということです。
風の冷たさに身を縮めながらも、胸の奥であたたかいものが静かに灯る。
そんな日常の一瞬を、この句はそっと見つめています。
(菅谷糸)
【執筆者プロフィール】
菅谷 糸(すがや・いと)
1977年生まれ。東京都在住。「ホトトギス」所属。日本伝統俳句協会会員。

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