
美しき小春日和や悲しき日
山口青邨
山口青邨最後の句集『日は永し』(夏草会、1992年)に収録されている、昭和59年(1984)の句である。小春日和であること以外何も述べていない。時候の季語は具体的な映像を伴わないため、実際の景や物と取り合わせた方がよいという俳句のセオリーとは、全く逆を行っている。ただ、その実景をすべて削ぎ落とした簡潔さと、「美しい日が同時に悲しい日に転じることもある」というわれわれの共有信念に訴えかける普遍性を持っていることにより、読み手がそれぞれの思いを投影しやすい句となっている。
それでは、作者自身にとって、この「悲しき日」とはどんな日だったのだろうか。ちょうどこの10年前に、青邨は以下のような句を詠んでいる。
五月よし五月はかなし人死にて
この句もまた「美しい日が同時に悲しい日に転じることもある」ということを詠んでいるため、掲句と同じ趣向を持っていると言って良いだろう。ただし、こちらの句には「人死にて」と、悲しい理由が具体的に書いてある。「美しき」の句を詠んだとき、はたして青邨は自分自身の「五月」の句を意識していただろうか。仮にしていなかったとしても、一度この「五月」の句をつくっていたからこそ、「美しき」のような句も詠むことができた、そう考えることにも一定の妥当性がある気がする。
そうだとすると、やはり掲句もまた、「五月」の句と同じように人を悼む句なのだろうか。
実はこのような推察を巡らせるまでもなく、答えは明確に存在する。掲句は「年尾忌 芝増上寺 二句」と前書きされているうちの一句だからだ。
うつくしき小春の日もて詣日に
高浜虚子の長男、年尾は青邨よりも8つ年下だったが、青邨よりも9年早く死去した。昭和54年(1979)10月26日のことである。この句はその訃に際して詠まれている。暦の上ではまだ秋であり、初冬の季語を使うにはやや早いが、「小春」と言いたくなるくらいよく晴れた、あたたかい日だったのだろう。
青邨はここから何年か、年尾忌に際して小春の句を詠み続ける。
小春日の遊びごころもゆるされよ
年尾忌は小春忌とでも申さばや
美しき小春日和や悲しき日
上から、昭和55年(1980)、58年(1983)、そして今回取り上げている59年(1984)の句である(57年にも「小春日の暮れて瞬く星一つ」という句が詠まれているが、前書きは付されていない)。青邨の中で、「小春」という時候が「年尾忌」と分かちがたく結びついていることがうかがえる。
これらの句を並べてみると、どれもシンプルな詠みぶりながら、そのシンプルさが最後の「美しき小春日和や悲しき日」において一層際立っている印象を受ける。その上、同じ趣向を持つ「五月」の句と比べても、「人死にて」が取り払われた分、より単純である。青邨が実際にこのような単純化を意識していたか否かは問題ではないだろう。自身の師である虚子の息子、かつ8歳年下の俳句仲間でもある年尾を悼む気持ちが、5年を経てこのような句形に結晶化した、と考えるのが、少なくとも僕にとっては自然な読みである。
話が飛ぶが、夏目漱石に「子規の画」という短い随筆がある。正岡子規の形見として漱石は彼の絵を一枚だけ持っていた。三色しか使っていないごく単純な東菊の絵で、子規自身もあまり上手く描けたと思っていなかった節がある。ただ、その丹念な色の塗り上げ方から、子規がその絵を描くために「非常な努力を惜しまなかった」と漱石は推察する。ところが、その絵を見た虚子が「正岡の絵は旨いじゃありませんか」と言う。
余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費やさなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。
『夏目漱石全集 10』(ちくま文庫、筑摩書房、1988年、165頁)
虚子と漱石の巧拙に対する考え方の違いが出ていて面白い。出来上がった絵だけをまっすぐに見る(?)虚子に対し、その過程をいろいろ思いすぎてしまう漱石の、神経質さと優しさの入り混じった子規の絵への愛情が、このエピソードによく現れていると思う。
掲句の話に戻る。この句はやはり単純である。俳句のセオリーは無視しているが、虚子的に言えば「旨い」のかもしれない。いや、あんまり旨くないのかもしれない。いずれにせよ、そのシンプルな句形の選択から、かえって青邨の深い思いが伝わってくる。
俳句は絵のように筆致を重ねていくものではないし、試行錯誤の過程が作品上に現れるものでもないから、漱石が子規の絵に対してそうしたように、青邨の句に「努力」や「時間と労力」、さらにその先の「拙」を見出すのは普通に考えれば道理には合っていない。しかし、青邨は年尾忌に際して何年も「小春」を詠みつづけ、「美しき」の句を得るまでに5年をかけた。これは事実である。絵の比喩で言えば、5年の間「小春」の色を塗り重ねていたようなものだ。掲句以降、青邨は死去するまで小春の句を詠むことはなかった。悼みを「小春」に託すという青邨の思いは、「美しき」の句を得たことで果たして完全に成就したのだろうか。
結局、何が言いたいかというと、ある思いを俳句において結晶化するのに、漱石の言う「努力」や「時間と労力」、そして何より「拙」が大切であるということを、青邨の「小春の句」は教えてくれているのではないか、ということだ。もちろん、青邨にとってどの「小春」の句がもっとも満足いくものだったかはわれわれには知りようがない。ただ、「拙が溢れる」ほどの努力をした先に掲句のような境地がありうると思い込んでおくのは、僕がこれからも俳句を長くつづけていく上で、大きな心の支えになるような気がするのだ。
今日(2025年11月20日)は句友の一周忌である。青邨と同じように、僕はこの日についての句をこれから何年も詠んでいくことになるだろう。だから句友にはもうしばらくの間、自身が「拙」を重ねつづける様を見守っていてほしい。
(田中木江)
【執筆者プロフィール】
田中木江(たなか・きのえ)
1988年: 静岡県浜松市生まれ
2019年: 作句開始
2023年: 「麒麟」入会 西村麒麟氏に師事
2024年: 第1回鱗kokera賞 西村麒麟賞 受賞
2025年: 第8回俳句四季新人奨励賞 受賞