肉として何度も夏至を繰り返す
上野葉月
自分が生きているうちには実現しないだろうな、と思っていたことがいくつかあって、日本人によるテニスのグランドスラム優勝もそのうちのひとつである。ところが、2018年に大坂なおみが全米オープン優勝を果たし、しかも翌年には全豪オープン優勝、世界ランク1位という、想像をはるかに超える光景を目にすることとなった。おそろしいほどの快挙である。
それと似た衝撃をごく最近経験することになった。上野葉月句集『enjoy』が電子書籍で刊行されたのだ。まさか、葉月さんの句集を読める日が来るとは……。
2017年の春のことだった。当時ひとりで俳句を作っていた私は、自宅から程近い会場で行われる、俳句の勉強会の情報を見つけた。ほぼ同時期に刊行された四冊の句集についての、現代俳句協会青年部による丸一日の読書会であった。万事引っ込み思案な性格のために人前に出る機会を逸し続けてきた私だったが、多摩の辺境でこんなイベントが行われるチャンスもそうはないだろうと考え、勇を奮って参加してみたのだった。結局子どもを見ながらだったので全プログラムを通して参加することはできず、これ以上後悔を残したくなかった私は子を家人に預け、柄にもなく会場近くの居酒屋での懇親会へとのこのこ着いていくことにした。
今思えば、ずいぶんな顔触れのそろった懇親会だったと思う。ところが当時の私は世の存命俳人たちの名前などほぼ知らないうえ、まったくのストレンジャーかつ結社や同人誌の類にも無縁であった。そのせいで、気を利かせてくれた何人かに挨拶されても話が全然盛り上がらず、相手に困惑気味の笑みを浮かべさせるだけであった。よくもまあ、空気も読まず乗り込んだものだ。あのとき話しかけてくださった数人の俳人には、大変申し訳なかったと思う。
居酒屋のぶち抜きの座敷の中心で俳人たちの熱い談議が盛り上がる傍ら、ごく自然な流れで、私はひとりぽつんと杯を傾けることになった。当然である。しかしそんな私の隣に腰掛け、話しかけてくださったのが上野葉月さんだった。さらには素性も知れぬ私を句会に誘ってくださり、かくして私は多摩からきらびやかな銀座へと這い出て、暫定句会、次いで豆の木の句会に参加するに至った。
前置きが長くなってしまった。つまり、上野葉月さんは恩人である。恩着せがましいところなど微塵もないけれど。そんな恩人の句を臆面もなく評する無恥と不遜を、今回ばかりは許していただきたい。何しろ、出会ってこの方、葉月さんから生み出される句は奇妙な熱源のように、俳句欲を刺激し続けてくるのだ。
肉として何度も夏至を繰り返す 上野葉月
肉として、という説明的かつ説明不要の生々しさ。そして火の鳥の八百比丘尼を思わせる無限のループ。これを支えるのが、夏至という舞台である。この句の夏至からは、どこかケルトの匂いがする。人々の理性を惑わせ、再生へと時空を歪ませる。あるいは本邦において夏越の祓の前にあたることを考えると、ケガレを纏ったままの肉を繰り返さざるを得ない業のようなものも浮かび上がってくる。とはいえ無理にそんなハイコンテクストを衒った読みをせずとも、一見散文的で口当たりが良さそうでありながら反芻したくなる味わいは変わらない。夏至を繰り返すほかないのだ、肉体を離れられない我々は。
業や諦念だけでなく、ときに軽やかなシニシズムを感じさせる句は、葉月俳句の魅力であることは間違いない。
プーチンに似てゐる座薬クリスマス 上野葉月(以下同)
極月のポスターおつかさん部隊
人造人間ノリコの茶摘みプログラム
罠猟の試験へ灰の水曜日
かと思えば、伝統派俳人の自称に背かぬ句も少なくない。
らつきようの尻の辺りの寒さかな
大皿の真ん中に置く春隣
そして、そこはかとない人の温度、あるいは滲み出る艶から生み出される抒情。
月影は受話器のやうに置かれをり
乙女座の少年多情竹の秋
もちろん(?)、そのほかに意味の分からない句もたくさんあって、それがまた俳句の割り切れない楽しさへと導いてくれるようでもある。
本当の季重り教えてあげる
教えてください、これからも。
(楠本奇蹄)
【執筆者プロフィール】
楠本 奇蹄(くすもと きてい)
豆の木など参加。第11回百年俳句賞最優秀賞、第41回兜太現代俳句新人賞。句集『おしやべり』(マルコボ.コム,2022)、『グッドタイム』(現代俳句協会,2025)。
Twitter:@Kitei_Kusumoto
bluesky:@kitei-kusu.bsky.social
楠本奇蹄句集『グッドタイム』はこちらのサイトでもお求めいただけます。
https://yorunoyohaku.com/items/681cc2c9d7091d26eed37cc5?srsltid=AfmBOoqyGEPaDlk0bjxFTnhTbJhfW_8zSN-8C4Zh5M1OZ4Y-Q2Qo_5v8
https://100hyakunen.thebase.in/items/109144894
【2025年6月のハイクノミカタ】
〔6月3日〕汽水域ゆふなぎに私語ゆづりあひ 楠本奇蹄
【2025年5月のハイクノミカタ】
〔5月1日〕天国は歴史ある国しやぼんだま 島田道峻
〔5月2日〕生きてゐて互いに笑ふ涼しさよ 橋爪巨籟
〔5月3日〕ふらここの音の錆びつく夕まぐれ 倉持梨恵
〔5月4日〕春の山からしあわせと今何か言った様だ 平田修
〔5月5日〕いじめると陽炎となる妹よ 仁平勝
〔5月6日〕薄つぺらい虹だ子供をさらふには 土井探花
〔5月7日〕日本の苺ショートを恋しかる 長嶋有
〔5月8日〕おやすみ
〔5月9日〕みじかくて耳にはさみて洗ひ髪 下田實花
〔5月10日〕熔岩の大きく割れて草涼し 中村雅樹
〔5月11日〕逃げの悲しみおぼえ梅くもらせる 平田修
〔5月12日〕死がふたりを分かつまで剝くレタスかな 西原天気
〔5月13日〕姥捨つるたびに螢の指得るも 田中目八
〔5月14日〕青梅の最も青き時の旅 細見綾子
〔5月15日〕萬緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
〔5月16日〕彼のことを聞いてみたくて目を薔薇に 今井千鶴子
〔5月17日〕飛び来たり翅をたゝめば紅娘 車谷長吉
〔5月18日〕夏の月あの貧乏人どうしてるかな 平田修
〔5月19日〕土星の輪涼しく見えて婚約す 堀口星眠
〔5月20日〕汗疹とは治せる病平城京 井口可奈
〔5月21日〕帰省せりシチューで米を食ふ家に 山本たくみ
〔5月22日〕胸指して此処と言ひけり青嵐 藤井あかり
〔5月23日〕やす扇ばり/\開きあふぎけり 高濱虚子
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〔5月28日〕蝶よ旅は車体を擦つてもつづく 大塚凱
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