やっぱり雨の可動域だわ 暮田真名

やっぱり雨の可動域だわ

暮田真名

この句について考えたいことが山のようにある。果たして、考えているのはこの句のことなのか;言語学のことなのか;それはまったく定かではないけれども。

「雨の可動域」と聞いて雨雲レーダーが思い浮かんだ。一読したときの衝撃たるや、「確かに雨にも可動域はあるのか!」と稲妻が走ったようだった。だが、冷静になってみれば「可動域」は「雨」に対して使える言葉なのか? 「新明解国語事典」の第七版には「可動域」は立項されておらず、ネットで調べるともっぱら関節について使われることが多かった。関節技が成立することからもわかるように、関節には動かせる限界がある。限界があるから「可動域」は決定されるわけだが、それが液体である「雨」に存在するのだろうか。かのザック・セイバーJr.も液体をギブアップさせるなんてことはできないだろう。作中主体は、一体何に納得を示したのだろうか。

川柳には度々こういうことがある。理解できないものに「感動した!」という謎。

言語学の中には意味論というジャンルがあって、私の理解では、「ある言葉や文章をなぜそう理解できるのかを説明するプロセス」の研究をしている。これがハチャメチャに難しい。例えば「私は俳句を詠む」という文章を考えるとき、各単語の意味がわかればそれがそのまま文章の意味である。では「彼の膝が笑っている」はどうだろう。呪術廻戦の両面宿儺のように体のどこにでも口を作れるというわけではあるまい。各単語の意味と繋がりを求めるアプローチは慣用句に弱い。「雨の可動域」も同様だ。「雨」「の」「可動域」のそれぞれの意味を求めたところで「雨の可動域」はわからないし、存在しない。

さらに厄介なことに、意味の無い音も単語に組み込まれていることがある。例えば「あたり前田のクラッカー」「合点承知の助」、英語で言えば”easy-peasy” ”see you later alligator”など。もし「の助」が付いているから「合点承知」を人名だと推測していたら、コミュニケーションはうまくいかない。英語圏の人も誰一人として鰐にさよならを伝えているわけではない。「雨の可動域」がどこまで意味があり、どこからが言葉遊びなのか。額面通り受け取ることも危ないとなると、本当に実体の見えない言葉だ。

唯一の手がかりは「やっぱり」「だわ」の二語が使われていること。このことが成立するには①比較対象があること②迷っていた、あるいは悩んでいた時間があることが前提となる。例えば、「(プロレス観戦なら)やっぱり後楽園ホールだわ」「(好きなラーメンは)やっぱり味噌だわ」といった具合に、比較できるもの(会場、味)があり、それらの優劣を考える時間があり、そして自分の好みに合うものはこれだと確信する瞬間がある。作中主体もそれらを経て「やっぱり雨の可動域だわ」となったはずだ。また、「だよ」「だぜ」などと違って他者の存在を感じない。会話の中で「やっぱり味噌だわ」が登場することこそあれ、「だって棚橋vs中邑だわ」が強烈な違和感を与えることを鑑みれば、「だわ」は内省寄りの言葉と言える。

「だって」と「だわ」がセットで登場できないように、言葉には結びつきの相性がある。もし掲句が非文でないのだとすれば、「やっぱり」「雨の可動域」「だわ」はそれぞれ結びつきの相性が良いということになる。ということは、その他の「やっぱり」「だわ」と結びつきの相性が良い言葉との互換性を持ち、その互換性を持つ言葉たちから「雨の可動域」がおおよそどういうものなのか、ということは探れそうだ。

私が持ちうる知識で迫れるのはここまで。当然のことだが、知らないものについて言及することはできない。「イクイノックスを近くで見てどうでしたか?」というインタビューはできるが「ペガサスに乗ってみてどうでしたか?」というインタビューは誰にもできない。この世の誰も、ペガサスの背中を知らないし、筋肉の躍動や息づかいを知らない。それでも、私が〈やっぱり雨の可動域だわ〉を読んで感動したことは確かであり、〈やっぱり雨の可動域だわ〉が読者になにがしかの影響を与えることは事実だ。

川柳は現実を暴力的に書き換える文芸だと思い始めた頃、川柳は私性を背負えるとも思った。なぜならそこには私の眼差しが宿るから。だが暮田はそうでもないようだ。暮田はパリコレで披露される服を、体温調整やメッセージの発信といった目的から解放された「服のためにある服」であるとして、川柳について次のように語る。

現代川柳において、五七五の定型はランウェイである。「円滑なコミュニケーション」という目的から解き放たれた「言葉のためにある言葉」を、五七五の上でなら考えることができる。

暮田は現実の書き換えではなく「言葉のパリコレ」として川柳を考えている。人間らしさを求めて川柳を読む私がいくら考えたところで、そこに作中主体も作者の実感も私性も存在せず、思考がただただ空転し続けるだけかもしれない。それでも考えることをやめられない。この無限長の道の先にある「雨の可動域」にいつか辿り着けるかもしれない;ひとつピースが嵌まればぐっと近づけるかもしれない;川柳以外がその答えを持っているかもしれない。そんな根無しの希望がずっと脳裏にある。もし生きている間に結論が出せなければ、死後も考えて考えて考えて、納得のいくものが閃いたら暮田さんに伝えに行きたい。彼がそのときまで川柳に興味を持っていればの話だが。

(日比谷虚俊)


【執筆者プロフィール】
日比谷虚俊(ひびや・きょしゅん)
いぶき」所属、「楽園」同人、「銀竹」代表、現代俳句協会青年部所属。



【2025年9月のハイクノミカタ】
〔9月1日〕霧まとひをりぬ男も泣きやすし 清水径子
〔9月2日〕冷蔵庫どうし相撲をとりなさい 石田柊馬
〔9月3日〕葛の葉を黙読の目が追ひかける 鴇田智哉
〔9月4日〕職捨つる九月の海が股の下 黒岩徳将
〔9月5日〕ありのみの一糸まとはぬ甘さかな 松村史基
〔9月6日〕コスモスの風ぐせつけしまま生けて 和田華凛
〔9月7日〕秋や秋や晴れて出ているぼく恐い 平田修
〔9月8日〕戀の數ほど新米を零しけり 島田牙城
〔9月9日〕たましいも母の背鰭も簾越し 石部明
〔9月10日〕よそ行きをまだ脱がずゐる星月夜 西山ゆりこ
〔9月11日〕手をあげて此世の友は来りけり 三橋敏雄
〔9月12日〕目の合へば笑み返しけり秋の蛇 笹尾清一路
〔9月13日〕赤富士のやがて人語を許しけり 鈴木貞雄
〔9月14日〕星が生まれる魚が生まれるはやさかな 大石雄介
〔9月15日〕おやすみ
〔9月16日〕星のかわりに巡ってくれる 暮田真名
〔9月17日〕落栗やなにかと言へばすぐ谺 芝不器男
〔9月18日〕枝豆歯のない口で人の好いやつ 渥美清
〔9月19日〕月天心夜空を軽くしてをりぬ 涌羅由美
〔9月20日〕蜻蛉のわづかなちから指を去る しなだしん
〔9月21日〕五体ほど良く流れさくら見えて来た 平田修
〔9月22日〕虫の夜を眠る乳房を手ぐさにし 山口超心鬼

【2025年8月のハイクノミカタ】
〔8月1日〕苺まづ口にしショートケーキかな 高濱年尾
〔8月2日〕どうどうと山雨が嬲る山紫陽花 長谷川かな女
〔8月3日〕我が霜におどろきながら四十九へ 平田修
〔8月4日〕熱砂駆け行くは恋する者ならん 三好曲
〔8月5日〕筆先の紫紺の果ての夜光虫 有瀬こうこ
〔8月6日〕思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ 中村草田男
〔8月7日〕広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
〔8月8日〕汗の人ギユーツと眼つむりけり 京極杞陽
〔8月9日〕やはらかき土に出くはす螇蚸かな 遠藤容代
〔8月10日〕無職快晴のトンボ今日どこへ行こう 平田修
〔8月11日〕天上の恋をうらやみ星祭 高橋淡路女
〔8月12日〕離職者が荷をまとめたる夜の秋 川原風人
〔8月13日〕ここ迄来てしまつて急な手紙書いてゐる 尾崎放哉
〔8月14日〕涼しき灯すゞしけれども哀しき灯 久保田万太郎
〔8月15日〕冷汗もかき本当の汗もかく 後藤立夫
〔8月16日〕おやすみ
〔8月17日〕ここを梅とし淵の淵にて晴れている 平田修
〔8月18日〕嘘も厭さよならも厭ひぐらしも 坊城俊樹
〔8月19日〕修道女の眼鏡ぎんぶち蔦かづら 木内縉太
〔8月20日〕涼新た昨日の傘を返しにゆく 津川絵理子
〔8月21日〕楡も墓も想像されて戦ぎけり 澤好摩
〔8月22日〕ここも又好きな景色に秋の海 稲畑汀子
〔8月23日〕山よりの日は金色に今年米 成田千空
〔8月24日〕天に地に鶺鴒の尾の触れずあり 本間まどか
〔8月26日〕天高し吹いてをるともをらぬとも 若杉朋哉
〔8月27日〕桃食うて煙草を喫うて一人旅 星野立子
〔8月28日〕足浸す流れかなかなまたかなかな ふけとしこ
〔8月29日〕優曇華や昨日の如き熱の中 石田波郷
〔8月29日〕ゆく春や心に秘めて育つもの 松尾いはほ
〔8月30日〕【林檎の本#4】『 言の葉配色辞典』 (インプレス刊、2024年)

関連記事