大谷句仏、それが本書の主人公である。東本願寺第23代法主である句仏は、正岡子規に私淑し、高浜虚子や河東碧梧桐と親交をもった。没後、1959年に出版された『句仏句集』(読売新聞社)には一万を超える数の作品が収められている。宗教学者である筆者は、そのなかで最も注目した句をそのままタイトルに採用した。
祖師は親鸞のこと。紙衣とは、流浪の生活の果てに90年の生涯を送った開祖が身につけていた安価な着物を指す。筆者は「勿体なや」という表現にどのような思想史的な広がりが隠されているのかを問う。一茶の〈もたいなや昼寝して聞田うへ唄〉や芭蕉の〈あらたうと青葉若葉の日の光〉と比べてみる。長谷川櫂の切字論や勝又浩の私小説論を参照してみる。するとどうだろう、句仏という無名の俳人の姿が少しずつ形となって見えてくる。
本書は、山折が取り組みつづけている親鸞論の一部でもある。というのも親鸞聖人は、『教行信証』と呼ばれる浄土真宗の聖典を完成させたあと、「和讃」と呼ばれる四行詩を晩年に多く残したからである。難解な漢語ではなく、わかりやすい和語で仏の徳を讃えるための七五調の歌である。
現世への執着という重苦しい衣を脱ぎ捨てる親鸞の「軽み」は、芭蕉の俳諧、そして「銀河と共に西へ行く」虚子の世界観とも響きあう。その意味で本書の白眉は、第八章「忌日の作法と挽歌」だろう。死とは民主・自由・平等といった近代的観念を粉砕する「究極の不平等」である。そして、俳人たちは忌日をめぐって、現世からの追慕の技を競い合う。句会は「移動式の不時の霊場」なのかもしれない……。まさしくこの点に、「句」と「仏」がひとつに結びつく契機がある。
「勿体なや」の解釈について、筆者は『法悦の一境』(広文堂、1920年)に句仏が書いた短文に依拠するが、句仏に縁ある俳人たちがエッセイを添えてその代表句を紹介した『自然のままに』(真宗大谷派宗務所出版部、1992年)には別のエピソードが紹介されている。碧梧桐が寺を訪れたとき、句仏は風邪で寝込んでいたため、〈お粗末に見たてまつりし蒲団かな〉と詠んだので、そのお返しとして句仏が「勿体なや」と詠んだというのだ。
真相は藪の中だが、句仏が中央俳壇と距離を置きながらも多くの逸話を残した魅力的な人物であることは疑いえない。虚子の辞世の句となった〈独り句の推敲をして遅き日を〉も句仏17回忌のために詠まれた句だった。
【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。