
卵酒飲めば怖かつたと分かる
野名紅里
ひとつ間違えば生命を失うような場面に遭遇したこと、剥き出しの悪意を正面からぶつけられた経験はある程度歳を重ねると皆一度はあるだろう。しかしその瞬間は目の前を出来事受け止めるのに精一杯で、怒ったり泣いたりして当然の事も愛想笑いでやり過ごさねばならないほど感情が麻痺してしまうこともある。そんな無自覚の恐怖で満ちた体へ注がれた卵酒は止まっていた感情を甦らせるものとなった。カップの熱で指先が温まり、立ち上る湯気からは日本酒が香る。こってり卵と砂糖の濃厚な甘さが喉を通り、身体の底まで熱を持ったことでようやく硬直した感情も解けやっと「怖かった」と自らの言葉で認識できたのだ。
この卵酒は、甘さや濃厚さに救われつつも動き出した感情によりしみじみと恐怖を自覚させられるというものであり、まだ完全にカタルシスを得られるものではない。しかし酒と卵、砂糖という焦げやすく手間のかかるものを丁寧に卵酒を作ってくれる人の存在があるのだ。また例え独りだったとしても酒と卵を溶き、焦がさぬよう鍋底をかき混ぜる淡々とした台所仕事を通して再び日常へ向かう作中主体の芯の強さも感じ取れる。
生きていく上では「もう過ぎたことだから考えても仕方ない」と本心を隠して前に進まざるを得ない事も多々ある。この句に出会えたことでようやく過去の自分を怖かったね悲しかったねと抱きしめてあげることができた。
(掲句は野名紅里さんの第一句集「トルコブルー」より)
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さて皆さんは玉子酒(卵酒)を飲んだことはありますか?レシピは複数ありますが、温めた日本酒に卵と砂糖を加えたものがメジャーなようです。かつて貴重品だった卵や砂糖を使い、風邪の時に作ってもらう特別感のある飲み物だったと祖父母世代からは聞いています。
つい先日、句会の席題にて玉子酒を挙げたところ「飲んだことないなぁ」という声が複数上がりました。確かに現代では風邪をひいたら玉子酒…よりはポカリやハーゲンダッツのようなちょっといいアイス、温かい生姜湯の方が一般的。私も熱を出した時は薬を飲んだご褒美のアイスやジュースが嬉しく、玉子酒とは無縁の冬を送ってきました。数少ない身近な例ばかりで恐縮ですが、このような理由から現代で玉子酒を飲む機会はかなり少ないのかもしれません。(今でも飲んでいるよと言う方がいらっしゃったらぜひレシピを教えてください!)これは食文化の多様化により療養食の選択肢が格段に広がったこと、そしてアルコールを飛ばしたとは言え「酒」の名が付くものを病人や子どもに飲ませることに抵抗を持つ人が増えたことが理由だと推測しています。
そしてもう一つ、少々乱暴な理由を加えるならば、好みが分かれる味同士を混ぜた飲み物だからというのもあるかもしれません。卵焼きやプリンなど卵と砂糖が混ざった甘さは世代を問わず大人気、温めた日本酒の芳醇な香りも呑兵衛にとってはたまらないもの。一方でこの特徴を苦手とする人が一定数いるのも事実です。この記事をご覧の方でも甘い卵焼きはちょっと…という方や日本酒、特に熱燗は苦手という方はいらっしゃいませんか?このように好みが分かれやすい味を混ぜ、かつ純粋な甘味と酒どちらとも言い難い玉子酒が馴染みの薄い飲み物となるのは自然なことなのかもしれません。
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