【読者参加型】コンゲツノハイクを読む【2021年9月分】


【読者参加型】

コンゲツノハイクを読む

【2021年9月分】


ご好評いただいている「コンゲツノハイク」は毎月、各誌から選りすぐりの「今月の推薦句」を(ほぼ)リアルタイムで掲出しています。しかし、句を並べるだけではもったいない!ということで、今月より一句鑑賞の募集をはじめてみました。まだ誰にも知れていない名句を発掘してみませんか? どなたでも応募可能できますので、お気軽にご参加ください。今回は11名の方にご投稿いただきました。


夕立や寝転んでゐるハイヒール

金田あわ

「櫟」2021年8月号より

自宅に近づいたところで夕立(朝の天気予報では「干しっぱなしOK」だったのに!)、慌てて玄関に入りハイヒールは脱ぎ散らかして洗濯物を取り込む。ありそうな情景ですが、「寝転んでゐるハイヒール」と、客観的な醒めた目で突き放しているような諦観を感じます。惜しいところで間に合わなかったのかと思います。仕事と家事を両立する現代女性。仕事はともかく家事は80%でよしとしても、こういう惜しいタイミングは悔しいですよね。(鈴木霞童/「天穹」)


遊ぶすべ思ひ出しけり更衣

山本耀子

「火星」2021年8月号より

生活は私達を疲弊させ、いつしか「意味もなくただ遊ぶ」ということを忘れさせる。運動は健康維持のため、娯楽はストレス解消のため、散歩は俳句の材料を探すため……。全てのことに目的があり、そこに遊びの入り込む余地はない。というか、目的を考えた時点でその行為は「遊び」ではなくなる。意味も目的も考えず、ただ純粋に「遊ぶ」にはどうすれば良いのだろう? そのヒントは、案外身近な所にあるかもしれない。例えば久々に出してきた服の手触り、それを着た時の呼吸や鼓動の変化。体がもう、勝手に「遊ぶすべ」を思い出している。(西生ゆかり/「街」)


カタクリや島へはどうか来ないでくれ

檜垣梧樓

「ペガサス」2021年8月号より

小さな島の一隅にカタクリの群生地がある。初夏の眩い木漏れ日の中、カタクリの可憐な紫の花が群れ咲いている。今年も変わらず咲いてくれた。ちょっとした観光名所かもしれない。しかしそこで「どうか来ないでくれ」と逼迫した思いが叫ばれる。何故だろう。ヒントは何もない。あ、そうか。何も言わなくても皆に共有される思いなのだ。とすればCOVID-19に対する嘆願に違いない。頼むから「どうか来ないでくれ」この小さな島に侵入されては…ですよね、などと推察しつつ、ああ、わからないって辛い、ねえねえどういうことなの、ほんとは、とお尋ねしたい。(大河里歩)


奔放に生きて胡瓜の曲がりやう

柴田奈美

「銀化」2021年9月号より

自分の人生を投影してしまいました。きれいでまっすぐな、高値で売れそうな胡瓜にはなれなかったけれど、とりあえずは、格好が悪くてもちゃんと食べられる胡瓜にはなれたのではないか、なんてね。胡瓜の栽培、やってみたこともありますが、素人には大変難しく、食べるところまでこぎ着けませんでした。害虫や病気、気象にも左右され、お手上げ状態。奔放に生きて大きくなれた胡瓜も、勝手なことばかりしながらも今日まで生きてこられた自分も幸せ者、運が良かった、と思うばかりです。この句の胡瓜の曲がりように、強さ、したたかさを感じます。いえ、わたくしは、けしてしたたかではありませんが。(フォーサー涼夏/「田」)



そら豆の楽器ケースのやうな莢

山県章宏

「香雨」2021年9月号より

そら豆の莢はその丈夫さや肉厚の質感を考えると、確かに中に楽器でも入っていそうだといえなくもない。言われてみれば気づくユニークな発想である。そら豆の明るい緑色を思い浮かべると、子どもが持つような楽器を思わせて、句に童話めいた魅力が生まれてくる。楽器は人の耳を楽しませるものであるが、そら豆の莢の中に入っている実は人の味覚を楽しませる。それぞれ人間に心地よさをもたらすもので、どちらをイメージしても幸福感につながる点もこの句の魅力であろう。(光本蕃茄/「澤」)


地下道に座礁せる人蚊遣焚く

小川軽舟

「鷹」2021年9月号より

ホームレスの日常を淡々と描写した句だが、肝は「座礁せる人」と表現したところ。人生は航海。天候も激変すれば潮目も変わる。その中を順風満帆で渡り切ることは簡単ではない。特にコロナ禍の昨今、気候変動下の荒海を航海するごとく、誰しもいつ「座礁」するか分からない。しかし「座礁」は必ずしも「難破」ではない。潮流や波が変わればまた海に漕ぎ出せるチャンスもある。時にサルベージ船の援助も必要となるが…。掲句は、ひと時「座礁」している人々に対する再起の応援歌として詠まれたものと解釈したい。「せし人」でなく「せる人」とした表現にも一筋の光明を感じる。(種谷良二/「櫟」)



掃除機をはじめに掃除して立夏

矢野玲奈

「松の花」2021年8月号より

「名もなき家事」という言葉が昨今話題となっている。トイレットペーパーを交換する、洗った食器を元に戻すといった、細々としているが絶対にやらなくてはならない家事のことだ。掃除機の掃除もそんな「名もなき家事」のひとつに当て嵌るだろう。日頃使っていると掃除機にも汚れは溜まるが、なかなかそこまでは手が回らない。でも、今日は「立夏」だ。夏のはじまりの明るさに引っ張られるように、えいやと掃除機へ手を伸ばす。俳句のみならず、生活の上でも季語を働かせて共生している様からは、俳句と寄り添って生きる人物の姿が浮かぶ。(笠原小百合/「田」)


春の雷貼り紙剝がしゆくやうに

沼田布美

「稲」2021年7月号より


貼り紙のあの猫、見つかったのかしら。雨に滲んだ連絡先の横、カメラ目線できめてた猫。そういえば昔、我が家には大きな車庫があって時折その暗がりに子猫が捨てられていた。その子はすでに傷を負っていた。どうかびっくりしませんように。小さな身体はほんのり暖かかった。まだ雷は鳴っている。時折ペリペリと空を裂きながら。あの貼り紙もきっともう必要なくなっただろう。さりげなく韻を踏むように訪れた春に、残りうる希望を感じる一句だと思う。(岡本亜美/「蒼海」)


繭白し命育み終へてより

稲葉京閑

「ひろそ火」2021年8月号より

終りも何も本当は命はこれからなのですけれどもそれを、絶ってしまうのは人間の業。そのことを過度には哀れまず、また人間の一人としての自嘲に陥りもせず、却って敬虔な心を行き渡らせて、この健気な蟲を詠みこなしたものと感受します。いよいよ煮られる処なのか。或いは今しも大鍋で煮られているのだろうか。煮上がったか。「白し」の切言と「終へてより」の調子からすると、ほかほか煮上がった場面のように感じられますね。(平野山斗士/「田」)


口開けしまま畳まれし五月鯉

寺杣啓子

「円虹」2021年8月号より

既に誰かの手によって畳まれた鯉幟。役割を終えてしまわれようとしているのだが、間近で見る鯉幟はぺしゃんこになって口を開けたままだ。哀愁を感じるとともに、滑稽にも見える。作者は、風に泳ぐこの鯉幟を見ながら過ごした、春の日々を思い出しているだろうか。せわしない毎日の中でのひとり静かな短い時間を、この句から感じた。ひとりの時間が充実しているかどうかは、時間の長さには関係しないと改めて思う。(弦石マキ/「蒼海」)


梅雨蝶の地のすれすれにつんのめる

干野風来子

「橘」2021年8月号より

梅雨の晴れ間を飛ぶ蝶蝶。雨が降り始めると、蝶は飛ぶのをやめて、近くの木や草の葉の裏側など、雨に濡れないような場所で羽を休めているという。そんな場所から、晴れ間に出てくるわけだが、羽が湿っていることもあるのか、低空飛行をしているのでしょう。よろよろしている景は、人間が道端の石に躓いてよろける様にも似ているのでしょう。(野島正則/「青垣」)


一年生薔薇の中より出て来たる

星野早苗

「南風」2021年8月号より

きっと背の高い薔薇垣が通学路にあるのだろう。6年間通う通学路だが、1年生にとってはすべての自然の運行が、衝撃の連続であるのかもしれない。友達か、あるいは同伴の親を驚かせようとしたのか、「薔薇の中より出て来た」一年生だが、しかしその瞬間、少なくとも俳句という十七音のなかで、「薔薇」と「一年生」は溶け合ってしまい、「一年生」は「薔薇」の一部になっている。「薔薇の中より」という省略の効いた表現がうまい。(堀切克洋/「銀漢」)


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