馬鈴薯の顔で馬鈴薯掘り通す
永田耕衣
たとえば、夫婦はだんだん顔が似てくるという。
ちょっと眉唾だとは思うが、何度も聴かされているうちに、たいしたことない曲が耳から離れなくなって、いつしか「名曲」になってしまうように、繰り返し見ているものが、だんだん自分の美意識を侵食してくるということは、確かにあるのかもしれない。
そういう面でいうと、犬を飼っている人は、かなりの確率で、犬そっくりである。
あれは、似てくるというよりも、飼い犬を選ぶこと自体が、すでにひとつの美学的行為なのだと思う。
では、馬鈴薯(じゃがいも)を掘っている人が、馬鈴薯に似てくるかというと、もしかしたらそうかもしれない。
確かに、キュウリをもいでいてもキュウリのような顔にはならないし、スイカを収穫していてもスイカのような顔にはならない。
「きゅうり」や「スイカ」が人間の顔とは、ほど遠いなりをしているからである。
しかし、「じゃがいも」はちがう。
里芋や長芋と比べてみても、ある種の人間の「顔」に近似している。
ほとんど顔だ、と言ってみてもよい。
とはいえ、それがどんな顔であるかを写実的に描写することはできない。
むしろ、人間の顔が顔らしさを失って、馬鈴薯に接近していることが、この句では何よりも重要なことなのだ。
人間起源馬鈴薯説。
そうだ、原始人間は、馬鈴薯だったのかもしれない。
(堀切克洋)