両の眼の玉は飴玉盛夏過ぐ
三橋敏雄
たとえば、目の前に飴玉がごろりとあるとき、それを目玉みたいだな、と思う。
そのことと、自分の目玉が飴玉みたいだな、と思うことのあいだには、どれほどの開きがあるのだろうか。
たぶん、かなりある。
目玉が「玉」であることは誰もが知っているけれど、現実には「目玉」という実感があるわけではない。
だから、作者はひょっとしたら「飴玉」かもしれない、と思ったのだ。ただそれは、暑い夏の盛りではできない。
少し涼しさが戻って、この眼はひょっとしたら何も見ていないのではないか、という批判的精神が戻ってきたとも読める一句。
『畳の上』(1989)所収。(堀切克洋)
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