天高し風のかたちに牛の尿
鈴木牛後
たとえば、(夏の季語である)噴水が「風のかたちに」吹かれていても、俳句としては「ああ、そうですよね」で終わってしまう。
それは誰もがよく見る景で、想像することも難しくはないからだ。しかし「牛の尿」は、どうか。
作者は牧場で「牛飼い」をしているが、さりとて日常的というわけではなく、牛を見ることなく生活している多くの人にとっては、なおさらだ。
というよりも、「尿」(俳句では「しと」と二音で読む)は、生物のからだから「排泄」されるものであり、その意味でいえば、「きれい」なものではないが、秋空高く、おおどかな風に煽られて散ってゆく尿は、むしろ美しくさえある。
牛の尿を「美しい」という感じることは、俳人として「まっとう」な感性であるが、真似してみよと言われても、なかなか真似できるものではない。おそらく、この句を特徴づけているのは、言葉のうえでの技巧(「汚い」とされているものを「きれい」な光景と「取り合わせる」)でさえなく、むしろ「牛の尿」に目がいってしまう感受性が先行しているのだと思う。
いいかえれば、「天高し」から逆算的に「牛の尿」が発想されているのではなく、逆に「牛の尿」のおかげで、「天高し」がリアリティをもって、作者の肉体に感じられている。季語に肉体性を持たせているのは、むしろ「牛の尿」のほうなのだ。
(堀切克洋)