100歳を超えてもなおクリエイティヴでいられること、言い方をかえれば、「世界とはこういうものだ」という結論をいちどまっさらにして、あたらしい世界像を提案することはできる。
もちろん、金原まさ子には「老いをグロテスクに描く」という美学が認められるが、そのグロテスクさは、つねに新しかった。よく知られている〈エスカルゴ三匹食べて三匹嘔く〉が、到達点などではない。
100歳でブログをはじめたというのは、「今日」という一日を「昨日」の呪縛から断ち切って、個別の「今日」を記録するためだったのだろう。
逆にいえば、「老いる」というのは、「今日は昨日と同じであり、明日は今日と同じ日がやってくる」と信じ込むことであり、それは言葉のクリエイティヴな側面に目をつぶり、誰のものでもないはずの言葉を「横領」してしまうことだ。
横領された言葉を奪還すること。
破壊と創作を繰り返すこと。
それが、俳句の目的のひとつである。
間違っても、掲句が示すのは「ザクロのようなかたちをしたイヤリング」などではない。作者は、本物の石榴でもつけておけ、と吐き捨てるように言っているのだ。もっとも、それは耳が遠くなったことを感じる自分自身に対して、だったのかもしれないが。
耳は音を聴くためにあるのであり、もし音が聴こえないならば、耳をわざわざつけておく必要がない。しかし現実には、肉体的老化にあらがうことはできない。耳は遠くなるものなのだ。
だからせめても、と思って作者は「石榴ぶらさげよ」と命じる。
林檎では押しが弱い。蜜柑ではかわいすぎる。南瓜では大きすぎる。噴火口をもった、色鮮やかな石榴、まだ熟れてはいないが、いつかは割られる運命にある石榴が、100歳の耳を飾るにはちょうどいいだろう。華やかであり、エキゾチックでもある。
老いた耳は、石榴の重さでひきちぎれてしまうかもしれないが、それもまた一興だろう。なにせ、もともと使いものにならない耳なのだ。そのときに顳顬を流れる血の色は、地面に落ちてルビー色の小さな実をあらわにした石榴と、混ざり合うだろう。そんなグロテスクさが、私の脳裏には浮かぶ。
というわけで、本日9月21日は、敬老の日。
よい一日をお過ごしください。
(堀切克洋)