【第2回】
市川猿翁二代の俳句と永井荷風・久保田万太郎・水原秋櫻子
(2024年2月4日新橋演舞場「スーパー歌舞伎 ヤマトタケル」初日)
先月10月22日、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が大千穐楽を迎えた。
“スーパー歌舞伎”は、三代目市川猿之助(1939〜2023)が1986年に創始した、現代劇と古典歌舞伎の融合的な作品。第一作がこの「ヤマトタケル」で、初演初日は1986年2月4日の新橋演舞場、主演は46歳の三代目猿之助であった。
それからちょうど38年後の2024年2月4日、スーパー歌舞伎の歴史が始まった同じ日の同じ場所から今回の「ヤマトタケル」はスタートし、2月・3月新橋演舞場、5月御園座(名古屋)、6月大阪松竹座、そして10月博多座と、5か月間にわたりロングラン上演された。主演は三代目猿之助の孫である20歳の五代目市川團子と、萬屋の中村隼人がつとめた。
前回「ヤマトタケル」が上演されたのは、12年前の2012年6月、「初代市川猿翁 三代目市川段四郎 五十回忌追善興行」での澤瀉屋(おもだかや)四人同時襲名の時。三代目市川猿之助が二代目市川猿翁、その甥の二代目市川亀治郎が四代目市川猿之助、息子の香川照之が九代目市川中車、孫の香川政明が五代目市川團子を襲名し、その初舞台として上演され、主演は36歳の四代目猿之助がつとめた。
その前年の2011年10月には襲名発表記者会見が行われ、二代目猿翁は襲名への思いを俳句にして、色紙にしたため披露した。
翁の文字身に添うまでは生き抜かん 二代目市川猿翁
季節を超越し、この短い十七音に生のエネルギーが満ち溢れる、まさに三代目猿之助らしい句。2003年に63歳で病に倒れてからしばらく舞台に立てていなかった中でも「生き抜かん」とする強い意志が心に響く。
この句は、次の句を本歌取りしている。
翁の文字まだ身にそはず衣がへ 初代市川猿翁
1963年、二代目市川猿之助は病をきっかけに孫の三代目市川團子に猿之助の名跡を譲ることを決め、自身は初代猿翁を名乗り、5月の襲名披露興行に向けてこの句を詠んだ。「衣がへ」は5月の初夏の季語であると同時に、襲名で名跡がかわること、そして病により歌舞伎の衣裳から病院着にかわることにも掛かっているように思われる。その衣と猿翁の「翁」の文字が身に添わない気持ちがよく伝わってくる。
この初代猿翁の句碑が、浅草寺横の浅草神社境内に建てられている。
初代猿翁はこの襲名披露興行で、自らが創造した新舞踊の傑作「黒塚」に出演する予定であったが、病が悪化し出演ができなくなり、急遽代役で23歳の三代目猿之助が初めて「黒塚」を踊ることになった。興行の最後の3日間だけ、初代猿翁は入院先の聖路加病院から医師に付き添われて舞台へ向かい、また三代目猿之助と四代目團子の父である三代目段四郎も、病をおして揃って口上をつとめた。これが、初代猿翁、子の三代目段四郎、孫の三代目猿之助と四代目團子の4人が揃う最後の舞台となった。
その翌月、1963年6月12日に初代市川猿翁は75歳で逝去した。そして三代目段四郎も、1963年11月18日に55歳で逝去。二代目猿之助、三代目段四郎は同じ年に旅立った。
初代猿翁=二代目猿之助=初代團子
初代猿翁は、1888年(明治21年)5月10日に初代市川猿之助(本名:喜熨斗龜次郎)の長男として浅草千束町に生まれた。本名は喜熨斗政泰。「喜熨斗(きのし)」という名字は大変珍しい。その由来は、初代猿之助の父である坂東三太郎(六代目坂東三津五郎の門人)の坂東家の屋号のひとつ「喜の字屋」と替え紋の熨斗模様から。明治になり名字が義務付けられた際に付けられた。
初代市川猿之助の喜熨斗龜次郎(1855〜1922)は、1859年に十三代目市村羽左衛門(のちの五代目尾上菊五郎)に入門し市村長松として1860年に初舞台。のち坂東羽太作と改名。大部屋役者として働いていたところを、河原崎権十郎(のちの九代目市川團十郎)に目をつけられ、1870年に團十郎の門弟となった。市川家の白猿に由来する猿のついた猿之助の名をもらい、最初は山崎猿之助と名乗った。1874年に團十郎が「助六」を出す際に新参で19歳の猿之助を抜擢したことに古参の弟子達が猛烈に反対し、役を取り消され、それに反発して1874年に師に無断で「勧進帳」の弁慶を演じ、市川家を破門された。松尾猿之助となりしばらく大阪などで修行した。1890年には破門を解かれ初代市川猿之助となった。高弟として活躍したのち1910年には二代目段四郎を襲名、1922年に逝去した。
その息子である政泰も、九代目團十郎に1892年に入門し、團子という名をもらい初代市川團子として歌舞伎座で初舞台を踏んだ。1910年、22歳の時に二代目猿之助を襲名した。
親子二代の師であった九代目市川團十郎の銅像が、浅草寺裏に建っている。
生家は浅草の千束通りの横町にあり、現在その跡地には「猿之助横町」という碑が建っている。
電信柱の支線名にも、その名が残っている。
初代猿翁は、久保田万太郎の弟子である増田竜雨から俳句の手ほどきを受け、約50年ほどの句歴の中で数多くの句を残した。
俳号は「薊」。それとは別に、歌舞伎役者の俳名として「笑楽」「華果」を用いた。
初代猿翁が数多く残した句の中から、「猿翁句日記抄」として152句が『猿翁』に掲載されている。
永井荷風
初代猿翁が残した句の中に、永井荷風(1879〜1959)のことを詠んだ句がある。
短夜や荷風の日記読みふける 初代市川猿翁
初代猿翁は、坪内逍遥などの芝居をするようになり科白に難解な言葉が出てきたり外国文学も入ってきた時代に、これからは学問が必要だ、として役者として当時珍しく中学校に進学。中学生をしながら舞台にも出演した役者の最初の例となった。さらに大学への進学も希望したが父に反対され、入学ではなく聴講生として慶應義塾大学と早稲田大学に学んだ。その慶應義塾大学に聴講生として学んだ際の教授が、永井荷風であった。
また、荷風が築地に住んでいた頃、同じく築地の明石町に初代團子時代の若き初代猿翁が住んでおり、よく荷風の家に呼ばれていたそうである。
永井荷風の『断腸亭日乗』には、大正七年から十年にかけて、二代目市川猿之助の名がたびたび登場する。この頃二代目猿之助は30代前半である。
「十二月十日。(中略)夕暮花月に赴き、主人および久米、猿之助等と、赤阪長谷川に至り、猿之助の三味線にて放歌夜半に及ぶ。」(大正七年)
「十二月十一日。(中略)夕刻自働車を倩ひ日本橋倶楽部清元梅吉おさめの会に赴き、猿之助三味線にて明がらすを語る。」(大正七年)
「二月廿七日。市川猿之助訪ひ来りて近日欧米漫遊の途に上るべしとて、旅装の用意其他万端の事を問ふ。たま/\櫓下の妓千代菊、八郎の二人、清元けいこの帰りがけなりとて訪ひ来り。猿之助の在るを見て大に喜び、談笑俄に興を添ふ。」(大正八年)
「三月十七日。松居松葉市川猿之助両氏の渡欧を東京駅停車場に送る。」(大正八年)
「四月廿三日。市川猿之助布哇より書を寄す。同地の邦字新聞に余が築地移居の事文藝風聞録に記載せられたりとて、其の記事を切抜き封入したり。」(大正八年)
「六月十五日。(中略)猿之助英国より絵端書を送り来る。」(大正八年)
「十月廿五日。猿之助の春秋座を観る。」(大正九年)
「十一月六日。(中略)たま/\猿之助が家の門前を過ぐ。毎年酉の市の夜は、猿之助の家にては酒肴を設けて来客を待つなり。立寄りて一酌し、浅草公演を歩み、自働車にて帰宅す。」(大正十年)
二代目猿之助は、演出や演技の勉強のため大正8年(1919年)3月から9月まで外遊し、アメリカ、イギリス、フランスなどを回り、ロンドンで公演していたロシアン・バレエやフランスのオペラ、舞台などを観覧。特にロシアン・バレエから強い感動を受け、それがのちに「黒塚」などの新舞踊の創作に大きな影響を与えた。
久保田万太郎
久保田万太郎(1889〜1963)は、慶應義塾大学に進学し「三田俳句会」で俳句を学び、のち松根東洋城に師事。永井荷風の門下で「三田文学」に小説や戯曲を発表して脚光を浴びた。二代目猿之助とも親交があった。
二代目猿之助の初代猿翁襲名に際し、久保田万太郎はこの句を詠んでいる。
あたゝかにことさら翁と命けしかな 久保田万太郎
この句には、前書がついている。
「市川猿之助丈、孫團子にその名を譲り、みづから猿翁と改名するよし」
「ことさら」という措辞に「翁」の字が二代目猿之助にはまだ添わないという思いが表れており、「あたゝかに」という春の季語に襲名への祝福の気持ちがこもる。「命けし」(つけし)の「命」の字の選択に、病の重い猿翁の命を気遣う心も表れているようだ。
偶然だが、久保田万太郎はこの句を詠んだ直後の1963年5月6日、洋画家の梅原龍三郎邸において宴席での誤嚥による窒息で亡くなっている。
水原秋櫻子
水原秋櫻子(1892〜1981)は、久保田万太郎と同じ松根東洋城に師事、のちに高濱虚子に師事。自ら立ち上げた「いとう句会」に宗匠として久保田万太郎を招いた。歌舞伎好きが高じて、歌舞伎座や明治座の筋書に連載をしており、二代目猿之助(初代猿翁)を詠んだ句をいくつか残している。
秋の灯や呼吸ひたと合ふ膝栗毛 (昭和35年11月)
霧凝つて鬼形となりぬ糸車 (昭和37年2月)
(前書「黒塚」)
夕立の川止せまる膝栗毛 (昭和50年7月)
(前書「初代市川猿翁・三代目市川段四郎十三回忌追善」)
引込の仁木梅雨雲を飛ぶ如し (昭和54年7月)
(前書「初代市川猿翁・三代目市川段四郎十七回忌追善」)
「膝栗毛」は、東海道中膝栗毛、通称「弥次喜多」のこと。「弥次喜多」は1928年8月に歌舞伎座で初演され、二代目猿之助の弥次郎兵衛は当たり役となり、以後毎年夏の恒例行事となった。
「黒塚」は初代市川猿翁が創造した新舞踊で、三代目猿之助、そして四代目猿之助に継承され、澤瀉屋の至高のお家芸となっている。
「弥次喜多」も「黒塚」も、踊りと演出の名手である四代目猿之助に継承され、現代においてなお非常に人気のある演目となっている。
(新橋演舞場に掲出された「ヤマトタケル」のポスター)
さて、今回の「ヤマトタケル」には、1934年に女歌舞伎の一座で初舞台を踏み、1947年に三代目段四郎に入門、また1955年に二代目猿之助に入門し今なお澤瀉屋を支えている二代目市川寿猿(御歳94歳!)も現役の歌舞伎役者として出演し、初演のヤマトタケルから全ての公演に出演してきた。初代猿翁、三代目段四郎、二代目猿翁、四代目段四郎、四代目猿之助、九代目中車、五代目團子とともに舞台に立ち、最も澤瀉屋を長く知る貴重な存在の寿猿だが、この10月の博多座公演は急病により休演となり、最後の博多座公演のみ出演が叶わなかった。また舞台で寿猿さんの元気なお姿を拝見できる日を楽しみにしている。
2023年5月、澤瀉屋に悲劇が起こり、四代目段四郎が76歳で亡くなり、四代目猿之助は座長公演の期間中に突然休演となった。急遽四代目猿之助の代役で主演となった19歳の五代目團子は、中2日間だけの稽古にも関わらず、想像をはるかに超えて見事に演じ切った。
筆者はこの代演初日である5月20日の切符を事前にとっており、しかもその日は有志で「歌舞伎吟行」を企画していた。五代目團子代役での公演再開の報を知って、舞台を開けてくださる現場の方々を観に行くことで支えたいと思い、澤瀉屋の先祖代々に「團子さんをお守りください」と祈る気持ちで見守った。最初は四代目猿之助の姿が重なり涙が溢れたが、團子をはじめ演者たちの「とにかくこの舞台をやり抜く」という意志を感じて、次第に涙どころではなくなった。気迫の演技と、科白と現実のリンクは少し怖いくらいであった。幕がおりると、見たことのない位のスタンディングオベーションが数分間続き、皆なかなか退場できなかった。それほどまでに團子の演技は奇跡的だった。
この時に代演した演目は、歌舞伎スペクタクル「不死鳥よ 波濤を越えて」というもので、1979年に三代目猿之助主演で上演され、のちの「ヤマトタケル」が生まれる端緒となった”スーパー歌舞伎エピソードゼロ”とも言われる演目。そこで五代目團子は、初めて1人で宙乗りをした。本当は、急遽の代演ではなく、本当の主演で初の単独宙乗りとして祝福したかった。
その團子の代演の姿を観た関係者の方々が、翌年の「ヤマトタケル」の上演、團子の主演を決めてくださった。”スーパー歌舞伎エピソードゼロ”での急遽の代演が、本当のスーパー歌舞伎での主演に繋がった。
今回の「ヤマトタケル」のロングラン公演のスケジュールは、四代目猿之助が創作する「スーパー歌舞伎Ⅱ」の上演予定がすでに発表されていた劇場日程であった。本当はそれを観たかった気持ちもあるが、20歳でヤマトタケルを演じる五代目團子の輝く姿は、大きな希望になった。
二代目猿翁は、療養中で5月の悲劇を知らされることなく、團子のヤマトタケルを目にする前に、2023年9月13日に83歳で亡くなった。
二代目猿翁襲名に際して自身の詠んだ句の通り、翁の文字が身に添うまで、生き抜いた。
二代目猿之助・三代目段四郎が同じ年に亡くなった1963年から、暦の還る60年後の2023年、またも同じ年に三代目猿之助・四代目段四郎は亡くなってしまった。
初代猿之助から始まり、初代猿翁、三代目段四郎、二代目猿翁、四代目段四郎、四代目猿之助が脈々と継承し創造し続けてきたものと、今舞台の上で奮闘する九代目中車と五代目團子をはじめ澤瀉屋の役者たちが、これからも澤瀉屋を澤瀉屋たらしめてくれる。
三代目猿之助が父と祖父を失ってから、紆余曲折を経て歌舞伎界の革命児となり、スーパー歌舞伎など数々の作品を世に残したように、今舞台の上に段四郎も猿之助も不在の中でも奮闘している五代目團子が、大きく羽ばたく姿をじっくり見届けていきたい。
そして、四代目猿之助の回復を心から祈っている。
歌舞伎吟行
「ヤマトタケル」新橋演舞場の千穐楽の3月20日に、「歌舞伎吟行」を開催した。筆者の所属する「蒼海俳句会」の堀本裕樹主宰と有志にお集まりいただき、観劇してすぐに俳句を作り、句会をするというもの。
清記をしたので、作者がわからない状態での選句で、最高得点句は流石の堀本裕樹主宰の句であった。
風光りやまず故郷の樫の葉に 堀本裕樹
堀本主宰の特選は下記の3句で、蒼海25号にも掲載されている。
見得を切る腰の若さや初桜 朝本香織
父なくば我あらざりき初桜 矢崎二酔
春闌けてヤマトタケルの殺陣の冴え 矢崎二酔
そして、筆者の句は下記の3句。
観客の椅子も火の色春ともし
春愁の犬の耳めく角髪かな
花樫やみたことのなきおとうさま 小谷由果
「ヤマトタケル」をともに観たみなさまの俳句と観劇の感想を聴きながら、それがとても良くて嬉しくて、何度も涙ぐむ句会であった。
歌舞伎吟行は、有志の方々と時々開催しているので、ご興味を持ってくださった方はぜひ「歌舞伎句会」のXアカウントをフォローしてくださいませ。
<参考文献>
『猿之助随筆』(1936年、市川猿之助著、日本書荘)
『猿翁』(1964年、市川猿之助編、東京書房)
『荷風全集』(1951年、永井荷風著、中央公論社)
『久保田万太郎全句集』(1971年、久保田万太郎著、中央公論社)
『芝居の窓』(1986年、水原秋櫻子著、東京美術)
※澤瀉屋の「瀉」のつくりは正しくは”わかんむり”です。
(小谷由果)
【執筆者プロフィール】
小谷由果(こたに・ゆか)
1981年埼玉県生まれ。2018年第九回北斗賞準賞、2022年第六回円錐新鋭作品賞白桃賞受賞、同年第三回蒼海賞受賞。「蒼海」所属、俳人協会会員。歌舞伎句会を随時開催。
(Xアカウント)
小谷由果:https://x.com/cotaniyuca
歌舞伎句会:https://x.com/kabukikukai
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