水鳥の夕日に染まるとき鳴けり
林原耒井(「蜩」昭和33年)
耒井(らいせい)林原耕三と名を聞いてああ、と思ってくれる俳人は、現在いかほどいるものであろう。言い出せば、情報量の多い人である。例えば、夏目漱石最後の直弟子。芥川龍之介を漱石に紹介した人物。こう並べると芥川より後輩のようだが、先に入り、後に卒業している。そして、漱石の弟子というのは(英)文学者としてであり、漱石から俳句を習ったわけではない。大学卒業後、松山高校(旧制)に赴任していた大正十二年、同僚の川本卧風(のちに「虎杖」を創刊・主宰)が起こした松高俳句会に参加して作句を開始し、翌年川本の紹介で臼田亜浪門に入った。この松山高校時代の教え子には、なんと芝不器男と中村草田男がいる。が、在学中に俳人としての交流はなく(草田男は俳句を始めていない)、後者とは後に東京で句座を共にすることになる。十四年から台湾に赴任。欧州へ留学の後、帰朝(昭和5年)後は東京に住む。まるで漱石の後を追いかけるような感じだが、師とは異なり定年まで複数の私大の教授を勤め、アカデミシャンであり続けた。
耒井の回想(「蜩」の後記)によれば、はじめに彼に俳句の手ほどきをしたのは貞木句之都なる人物(この人も漱石門のようだ)であり、進められたのが本連載第4週目で書いた高田蝶衣の「島舟」であった。これが肌に合ったようで、耒井曰く「私はそれを愛読した。これが私には少なからぬ影響を及ぼしたやうに思ふ。明治、大正、昭和に亘つて私の最も愛した俳人は蝶衣であり、単に愛したばかりではなく、この三代を通じて彼こそは最も優れた俳人だと私は今でも思つてゐる」、という激賞っぷりである。
東京では、川本の薫陶を受けた松高俳句会のOB、篠原梵や八木絵馬らが上京して「石楠」に入り、これに草田男、客分の湊陽一郎や畑耕一らも参加し、耒井宅、後に新宿の帝都座地下のカフェモナミで月例句会を行っていた。亜浪の「石楠」は反ホトトギスだから、この集まりはかなり興味深い。耒井は昭和36年のインタビュー(聞き手は湊陽一郎、引用文は「芭蕉を越ゆるもの」(昭和47年)による)で、例の「甘やかさない座談会」で結社の長老連からいじめられていたころの草田男の様子について振り返り、「あの頃、草田男ったら、たとえば犬吠岬へ行って一晩とまって、六十句ぐらい作ってあの会へもってくる。それもね。手帳も何ももってこないで、すらすらと六十句を全部暗誦するんですからね。みんなで六十句を全部きいているのもなかなかしんどいですよ。そのかわり随分、皆で遠慮なくたたきましたね。(中略)結局松高俳句でね、われわれと接してもまれているうちにいまのような新しい方へ進む下地ができちゃったんです。」と話している。松山高校俳句会に関わる「石楠」の諸俳人と草田男の影響関係についてのきちんとした研究は未確認だが、草田男は毎回句会に来ていたというから、そこで得たものを糧にしていたことは確かだろう。それにしても、この「六十句全部暗誦」というのは何とも凄まじい話ではないか。このインタビューには他にも面白いことが書いてあるので、また機会があれば紹介しようと思う。
さて、掲句は昭和10年の作。草田男と句座を共にしていた時期にも重なると思われる。この水鳥に仮託された気分など考え始めると、なにやら思わせぶりな詠みぶりではないだろうか。「蜩」の跋文を書いた弟子の西垣脩に言わせると、耒井は主情的かつ叙景に映像喚起力がある、という句風であるらしい。掲句はシンプルな叙景として、自然の偶然の差配に心を動かされる人間の情を読むこともできるし、(本人の意図はともかく)時代柄、夕日(赤)に染まる水鳥を人間に置き換えれば、当時としては不穏当な深読みも成立しそうである。また、個の情熱の象徴としてもこの赤を見ることもできようか。方法的には和歌・短歌のような展開の叙景で、知的に構成された句なのではないかと思う。蛇足ながら、耒井という俳号は、本名の耕を二字に分割したものだそうである。
(橋本直)
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【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。