綿虫や愛するために名をつけて 神野紗希【季語=綿虫(冬)】

綿虫や愛するために名をつけて

神野紗希

俳句は、誰も目にとめないような「小さなもの」を愛する詩型だ。時として、それは「蝿」や「蚊」のように、人間にとって「害」とされるものでさえある。

「綿虫」は、初冬になると空中を漂う姿が見られる小さな虫だ。まるで雪が舞っている様に見えることから「雪虫」と呼ばれることがある。沖縄や鹿児島では見られないかもしれないが、北海道や本州で広く観察できる。

観察できるはずなのだが、わたしは俳句をはじめるまで、「綿虫」が存在していることに、まったく気づいていなかった。つくづく世界はことばでできているんだな、と思った瞬間だった。言葉を知ると、世界の解像度があがる。見えないものが、見えるようになる。

綿虫や愛するために名をつけて

この句から「見えるようになる」ものとは何だろうか。名前をつけるシチュエーションはいろいろあるが、最も一般的な対象は、飼うことになったペットか、生まれたばかりの子どもであろう。

ただ、「綿虫」が虫であることを考えると、ここで「愛する」ことを明言されているのは、人間であると考えるのがまずは自然だ。そのほうが「や」という切字のカット/構図が明確になる。「綿虫」は、ある「真実の発見」を導き出すための触媒のようなもので、後半は、「わたし」を含む人の話をしている。

この句が収録された句集『すみれそよぐ』(朔出版、2020年)のタイトルとなった句が、〈すみれそよぐ生後0日目の寝息〉であることを思うと、初めての出産──しかも早産だったらしい──のわが子を愛おしむように詠んだ、衒いのない一句であることは、いっそう明らかである。

もちろん、この句を独立して読んだときにも、「愛するために名をつけ」た対象が、ペットではなく、ましてや綿虫ではなく(もうそれはとうの昔に名付けられているのだから、当然のことだ)、わが子どものことであることは、ある程度まで、わかる。

しかし同時に、人は生きていると何かに名前をつける、という出来事が多かれ少なかれやってくるものだ。狭い意味で解釈すれば、自分の子どもを詠んだ句ではあるが、広い意味では「名付けと愛」をテーマにした句でもあり、その意味ではペットとしても、綿虫としても、けっして間違いではない。そもそも「綿虫」って、かわいらしいネーミングですものね(「愛するため」につけたわけではないでしょうけれど)。

「名付け」というテーマでいえば、いつのころからか、「キラキラネーム」や「DQNネーム(ドキュンネーム)」ということが言われるようになった。社会的に大きな話題になったのは「悪魔ちゃん」問題だ。1993年のことである。この事件のあとで、わたしたちは「名付け」がすなわち「愛」とはならないこともまた、知っている。「名付ける」という行為は、一方的な暴力もである。愛と暴力は紙一重なのだ。

そういえば、むかしスピッツに「名前をつけてやる」という曲があった。2作目のオリジナルアルバムのタイトルにもなっていて、まだ「ロビンソン」で爆発的にヒットする前の、ほんのりとしつつもかなり尖った名曲である(1991年発売)。その歌詞曰く、「誰よりも立派で 誰よりもバカみたいな」「名前をつけてやる」。愛と暴力がここには同居している。

一説によると、これは「その辺の猫や草木に名前をつけてやると強がっている曲」なのだそう。曲のテンポもいいし、草野マサムネの癒しの高音ボイスに騙されそうになるが、これもまた自我の「暴力性」にあらわれであると、言えなくもない。

いずれにせよ、「名付ける」という行為は、その対象を育て、ケアし、大きくなったあとも見守るという「責任」を負うということであり、それをわたしたちは「愛」と呼ぶ。その責任を放棄して、放置し、蔑み、存在を否定してしまうという矛盾は「暴力」となるのだが、それは「愛する」ということが、けっして無責任に行えることではないからだ。

愛することは責任を負うことであり、責任を負うとは「他者に応答する」ということである。「愛」は労働ではないが、一方的に何かを捧げることである以上、けっして楽なことばかりではない。すでに数ヶ月にわたって、お腹のなかの命を守り続け、早産という不安にも耐え、元気な子どもを出産した作者にとって、子どもの誕生は無上の喜びであるとともに、来るべき子育ての大変さも全身で理解している(多くの父親は、身体的なこともあって、なかなかそうはいかないのだが)。

子どもが泣けば、睡眠不足であっても起きて授乳をしなければならない。子どもが熱を出せば、深夜でも救急外来を探すか、寝ずの看護をしなければならない。子どもが習い事をしたいといえば、夢に向かう姿を応援しなければならない。子どもが学校に行きたくないといえば、そっと寄り添って、その小さな声を逃さないようにしなければならない。

だが、親にとって、子どもは「ひとりでは生きられない」がゆえにケアしなければならない対象であると同時に、きわめて「自由」な存在である。いったいどんなふうに育つのか、どんな表情を見せてくれるのか、どんな大人になるのか、それはまったく予想することができない。母親が俳人であることを知ったとき、「ぼくもはいくのせんせいになるよ!」などと、言い出しはしまいか。

その「絶対的な未来」に対して、あなただったら、どんな名前を与えるだろう。

未来は、ふわふわと漂うような「綿虫」のように、気ままで、どこに向かうかわからない。

そのふわふわとした未来は、ひるがえって、自分にとっての未来でも、ある。

(堀切克洋)


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