2026年6月から【木曜日】は2か月交代で〈大学俳句会〉のみなさんにご執筆いただいています。トップバッターは愛媛大学(愛媛県・松山市)の「愛媛大学俳句研究会」。最終回は柊木快維さんです。

柊木快維(愛媛大学俳句研究会)
1.
果たして三人で「見つめあふ」ことは可能だろうか。AとBとCがいるとして、AがBを、BがCを、CがAを見つめているとき、その視線は決定的にすれ違っている。かといって、AとBが見つめあい、その後でBとCが見つめあい、最後にAとCが見つめあう場合、そのつど残された一人はまなざしから完全に疎外されてしまう。その状況は、果たして「三人」で見つめあっていると言えるのだろうか。同じ「麻の服」という衣裳を身に纏っている一方で、この「三人」の視線はいつまで経ってもすれ違い続けるのではないか。
近代俳句において写生という方法が視覚を制度化したとすれば、飯島晴子の句では、その制度から疎外された〈視線〉が問題化されているように思う。しばしば明治の近代俳句・短歌の改革がカメラアイ/フレームの固定という比喩で語られるように、写生はいま・ここにある眼前の対象を詠むことで、そこから遡行して立ち位置が確定できる統一的な主体を形式化した。とくに虚子が定式化した客観写生は、眼前の事物の描写を至上命題とすることで視覚を特権化したが、そのとき、それをまなざす主体とその〈視線〉は無色透明なものとされることで、読者は主体の立ち位置に自らを代入することが容易になった。
カメラと〈視線〉の関係について、蓮實重彦は『監督 小津安二郎』のなかで、映画のカメラが直接撮ることのできないものとして「風」や「時間」といった不可視の対象を挙げた後で、次のように述べる。
あといくらも存在するだろうそうした不可視の対象のなかで、映画そのものにもっとも深いかかわりを持つものは視線である。瞳ならたやすくフィルムにおさめうる映画も、視線に対してはまったくの無力を告白するしかないのだ。瞳を鮮明なイメージとして画面に定着しえながら、視線は絶対に撮ることができないという点に、映画がかかえこんだ最大の逆説がある。[…]
瞳は可視的な対象だが、見ること、つまり視線というものは絶対にフィルムに写らないのである。そこで、あたかも何かを見ているような視線というものは、画面から消滅せねばならない。見ることとは、映画にあっては、納得すべきことがらであり、視覚的な対象ではないのだ。
蓮實によれば小津安二郎こそが「ひたすらその逆説にこだわり続けた映画作家である」のだが、ここで話を私たちの文脈に戻すと、飯島晴子はこうした視線をめぐる問題系を俳句において展開した作家である。彼女の俳句に登場する瞳は、つねに〈視線〉とふかく関わっている。それは何かを〈見る〉瞳ではなく、何かを〈見る〉という行為それ自体をまなざす瞳である。
2.
親の目に海鼠あふれてゐたりけり 『蕨手』
眼中のよく濡れてゐる龍の髯
老蟬の眼を人の走りけり 『朱田』
どの句でも対象が直接まなざされるのではなく、何者かの「眼」を経由するかたちで間接的にまなざされている。他者の瞳で視線が屈折することで、一句のなかの〈見る〉という行為が複雑化している。他者を介在させるという点で、これらの句では掲句における「三人」と似た三者関係が設定されているのだが、「親」や「老蟬」から送り返されるはずのまなざし——およびその瞳に映り込む自分自身——が無化されており、「見つめあ」っている印象はない。「あふれ」たり「濡れ」たり「走」ったりしているのは「眼」の中に映る対象の方であり、他者の瞳はそれらを映し続ける虚無的な鏡としてしか機能していない。
竹伐の眇の方の眼に話す 『蕨手』
青麦のほかは何んにも見えない妻 『朱田』
黒い眼帯してあつまれよ翡翠に 『春の蔵』
〈視線〉に関する句を初期の句集からそれぞれ一句ずつ引いてみた。これらの句でも「見つめあふ」可能性は除外(あるいは回避)されている。わざわざ「眇の方の眼」を選んで話したり、「眼帯」をすることを要求したり、他者のまなざしを遮断しようとする姿勢が見て取れる一方で、「青麦」以外は何も見ることができないとされる「妻」をまなざしていたり、眼帯に対して「黒い」という色を指定していたり(眼帯をつけている人自身は、その色を認識することはできない)と、こちらから対象を一方的にまなざすことについては特権的な権利を与えられている。
ここに見出されるべきは他者からまなざされることへの畏怖、といったありがちな精神分析的主題ではなく、もっと底の知れない、問答無用で他者のまなざしを無化してしまう強靭なまなざしの存在である。
3.
晴子は実作においても〈見る〉ことにこだわる作家であった。「私の俳句作法」という文章では、作句の大事なポイントとして「〝視る〟ことへの執着」を挙げ、「眼で外部の事物を見るだけではない。対象は自分の内部をも含めてのあらゆるものであり、それを視覚だけでなく自分の総体でなるべくそのままに受け取ることである。対象を早々と自分にひきつけないで、対象との対峙にこらえることによって時に対象は思わぬ姿を現」 すと述べている。晴子はその虚構性の色濃い作風とは裏腹に、実際の「モノ」を見ながらでないと作句ができないと常日頃言っていたそうだ。また、波多野爽波と一緒に吟行をした際にいわゆるホトトギス流の写生に目覚めたといい、写生について「目に見えるものの向うに目に見えないものを見ようとする──見ようとするというより、見えてくるといった方がよいのかもしれない──のが、写生といわれる方法の本来の在り方なのではあるまいかと思う」 と述べている。周りの俳人の証言では、この爽波との京都吟行を終えた後で「私の作り方はホトトギスの作り方とほとんど同じ」 とさえ語っていたという。だがしかし、冒頭でも述べたように、たとえその作り方が「ほとんど同じ」であったとしても、結果的に出力される句は写生句とは大きく違う。二つをもっとも大きく隔てている点は、晴子の句では写生で前提とされている〈見る〉という行為それ自体が問いに付され、主題とされているところにある。
飯島晴子は眼力が強すぎたのだと思う。〈夏の蘭まなざし育ちつつありぬ 『朱田』〉という句が宣告しているように、作句をすることは晴子のまなざしを強靭に育て続けた。「目に見えないもの」が見ようとせずとも「見えてくる」のは、写生という方法のもつ普遍的な効能ではなくて、晴子自身が生まれもった眼力の強さに起因するように私には思われる。〈見る〉こと(/〈見られる〉こと)が必然的に設定する二者関係において「対峙にこらえ」ていたのは晴子ではなく対象の方であり、ついにその対峙にこらえきれなくなった事物は、晴子のまなざしの下に自分でも「思わぬ姿」を曝け出すこととなる。
1 / 2