橡の実のつぶて颪や豊前坊
杉田久女
コロナ禍で私の住む福岡県も緊急事態宣言下の自粛が続いている。その中で県境を越える外出はどことなく後ろめたさもあり、吟行をする所も限られてくる。そこで時折訪れているのが、車で片道1時間40分もあれば行ける英彦山である。ここだと大分県との県境なのですれすれ福岡県。昼食も途中の道の駅で弁当を買っていき、木々の緑の中で、遠くの山並みを眺めながら食べれば自粛気分も一掃できるというもの。
そこで英彦山といえば一番に思い浮かべるのが久女の代表句〈谺して山ほととぎすほしいまゝ〉であろう。この句碑は英彦山神宮奉幣殿の下の参道脇にあるが、もう一基ここから車で7、8分大分側へ行った豊前坊高住神社にも久女の句碑がある。それが〈橡の実〉の句碑である。
もうご存知のように〈谺して〉の句が、昭和6年、大阪毎日、東京日日新聞社主催「日本新名勝俳句」(選者高濱虚子)に応募し帝国風景院賞、金牌賞を受賞、そして銀牌賞を受賞したのがこの〈橡の実〉の句である。
この〈橡の実〉の句碑のある豊前坊高住神社は牛馬の神として農村の人達の信仰を集めている所であるが、なんと豊前坊天狗神として九州の天狗の棟梁格で霊力抜群と公式のホームページにある。
この句碑は、拝殿に祀られたれた天狗面が睨みをきかす境内にあり、後は崖で橡の大樹の下にある。昭和四十四年、長女昌子氏の筆により建立されている。秋にはこの橡の実が参道の石畳に跳ね返り深山に音をひびかせるのである。橡の実はかなり大きく、あちらこちらに落ちる様はまさに「つぶて颪」である。この句の奥行きのあるスケールの大きさは久女の句の世界そのものであり、ゆったりとただよう品格の正しさは作者の姿そのものであろう。橡の実が落ち尽くしたあと豊前坊は華やかな紅葉の季節へと向かうのである。
実はここには久女の句に呼応するかのように、高住神社の宮司であった松養風袋子氏の「橡の実の落ちつくしたる静かさに」の句碑が、久女の句碑より少し下がった参道脇にある。古い句帳を見ると、この句碑開きには私も参列しており、思い返せば集めてあった橡の実を一人一人に分けてくださり、お昼は英彦山の新豆腐のお膳でもてなしていただいたことを思い出す。橡の実の落ちる音を聞きながらの句会はなかなか風情のあるものであった。
久女と英彦山のつながりは、四季それぞれに句材をもとめて訪れていたのはもちろんだと思うが、かつて泊まった英彦山神宮の参道脇の宿でも、ご主人が「母が久女に俳句を習っていたもんで」と、床の間の軸を久女の軸に掛け替えてもてなして頂いたこともあり、そのようなことを考えても、ここの土地の人々との交流にも心が癒やされ、訪れていたのではないかとも思えてくる。
「杉田久女句集」所収
(千々和恵美子)
【執筆者プロフィール】
千々和恵美子(ちぢわ・えみこ)
1944年福岡県生まれ。福岡県在住。「ふよう」主宰。平成15年「俳句朝日奨励賞」平成18年「角川俳句賞」受賞。句集「鯛の笛」。俳人協会評議員。俳人協会福岡県支部副支部長。
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