遠方とは馬のすべてでありにけり 阿部完市

遠方とは馬のすべてでありにけり

阿部完市

たとえば、掲句が下記のようだったらどうだろう。

遠方は馬のすべてでありにけり

導入の「遠方とは」から助詞「と」を除けば、五七五の定型に収まり原句よりも「俳句らしく」見える。しかし、調子をきれいに整えた分、「遠方」「馬」が言葉だけの存在というか、表層的に世界をなぞって描いたような印象に変わってしまう。

改めて原句を見てみる。「遠方とは」の「とは」。その二語から生まれる畳みかけるリズム。さらにリズムが呼び起こす切迫感。そこから、「とは」という定義づけの表現には、作者の主張・意思の存在が明確に表れていることがわかる。

遠方とは、そして馬とは。掲句は阿部本人が十七音の中に定義付けて描いた世界だが、さまざまな解釈を許容し、また問いを読者に促す句でもある。年齢や人生の歩みとともに句から受ける印象や景色は変わってくるだろうし、余白の深度や句から見える背景の色合いも異なるだろう。現在の私には、この句の遠方とは「行くことの叶わぬ場所≒手の届かぬ憧れ」であり、馬とは作者の化身のように見える。あるいは馬の視点を借りて語っているようで実は作者本人の心眼に映った世界なのかもしれない。だから、馬と作者が渾然一体と化して、同一の魂と化して、十七音の中に封じ込められてしまったような印象で映るのかもしれない。ならばこそ、馬≒作者の「すべてでありにけり」に強靭さが宿るのであり、「すべて」と断定できる作者に羨望を覚える。

掲句は無季俳句である。だが、「遠方」「馬」という言葉があるからか、秋から冬に向かう季節とその中の山川草木が脳裏に浮かぶ。さらに、彼方を見つめる馬の澄んだ瞳とそこに宿る孤独を感じる。

俳句は季語を伴うことを前提とした型の表現と一般的に言われることが多いが、掲句や「しんしんと肺碧きまで海のたび(篠原鳳作)」のような作品は無季なのに季節を感じるという意見も聞く。それは、おそらく生命力を想起させる語(馬・肺)と自然を想起させる語(遠方・海)の相乗効果によるものではないか(もちろん、この私見がすべての無季俳句に該当するわけではないが)。

映像・心象の両面において、掲句から覚える透明感と厳しさ。また無季ゆえに漂う神秘性がこの作品の魅力の一つだが、同時に「俳句および俳句実作者にとっての季語とは何なのか」という問いを投げかけているようにも思える。

そう考えると、無季とは季節を手放す、すなわち「時間を越える」ことと同義なのかもしれない。だからこそ掲句は虚実の境界を越え、あるいは両者の世界(時空)の行き来を可能にしたと言えるのかもしれない。読者は作品中の馬(作者)に自身を投影することで、何処とも知れぬ未踏の地、すなわち「遠方」へ初めて到達できる。そのとき、遠方という言葉は「永遠」に限りなく近づくのだろう。そして、そこにはあらゆる軛から解放された普遍的な世界(時空)が存在するのではないか。そんな夢のような映像が掲句から見える気がする。先日、亡くなった人がこの句について「僕はこの句に遥かなものを感じる」と言った懐かしい声とともに。

阿部完市『純白諸事』(1982)所収。

柏柳明子


【執筆者プロフィール】
柏柳明子(かしわやなぎ・あきこ)
1972年生まれ。「炎環」同人・「豆の木」参加。第30回現代俳句新人賞、第18回炎環賞。現代俳句協会会員。句集『揮発』(現代俳句協会、2015年)、『柔き棘』(紅書房、2020年)。2025年、ネットプリント俳句紙『ハニカム』創刊。
note:https://note.com/nag1aky



【2025年10月のハイクノミカタ】
〔10月1日〕教科書の死角に小鳥来てをりぬ 嵯峨根鈴子
〔10月2日〕おやすみ
〔10月3日〕破蓮泥の匂ひの生き生きと 奥村里
〔10月4日〕大鯉のぎいと廻りぬ秋の昼 岡井省二
〔10月5日〕蓬から我が白痴出て遊びけり 平田修
〔10月6日〕おやすみ
〔10月7日〕天国が見たくて変える椅子の向き 加藤久子

【2025年9月のハイクノミカタ】
〔9月1日〕霧まとひをりぬ男も泣きやすし 清水径子
〔9月2日〕冷蔵庫どうし相撲をとりなさい 石田柊馬
〔9月3日〕葛の葉を黙読の目が追ひかける 鴇田智哉
〔9月4日〕職捨つる九月の海が股の下 黒岩徳将
〔9月5日〕ありのみの一糸まとはぬ甘さかな 松村史基
〔9月6日〕コスモスの風ぐせつけしまま生けて 和田華凛
〔9月7日〕秋や秋や晴れて出ているぼく恐い 平田修
〔9月8日〕戀の數ほど新米を零しけり 島田牙城
〔9月9日〕たましいも母の背鰭も簾越し 石部明
〔9月10日〕よそ行きをまだ脱がずゐる星月夜 西山ゆりこ
〔9月11日〕手をあげて此世の友は来りけり 三橋敏雄
〔9月12日〕目の合へば笑み返しけり秋の蛇 笹尾清一路
〔9月13日〕赤富士のやがて人語を許しけり 鈴木貞雄
〔9月14日〕星が生まれる魚が生まれるはやさかな 大石雄介
〔9月15日〕おやすみ
〔9月16日〕星のかわりに巡ってくれる 暮田真名
〔9月17日〕落栗やなにかと言へばすぐ谺 芝不器男
〔9月18日〕枝豆歯のない口で人の好いやつ 渥美清
〔9月19日〕月天心夜空を軽くしてをりぬ 涌羅由美
〔9月20日〕蜻蛉のわづかなちから指を去る しなだしん
〔9月21日〕五体ほど良く流れさくら見えて来た 平田修
〔9月22日〕虫の夜を眠る乳房を手ぐさにし 山口超心鬼
〔9月23日〕真夜中は幼稚園へとつづく紐 橋爪志保
〔9月24日〕秋の日が終る抽斗をしめるやうに 有馬朗人
〔9月25日〕巻貝死すあまたの夢を巻きのこし 三橋鷹女
〔9月26日〕ひさびさの雨に上向き草の花 荒井桂子
〔9月27日〕紙相撲かたんと釣瓶落しかな 金子敦
〔9月28日〕おやすみ
〔9月29日〕恋ふる夜は瞳のごとく月ぬれて 成瀬正とし
〔9月30日〕何処から来たの何処へ行くのと尋ね合う 佐藤みさ子

【2025年8月のハイクノミカタ】
〔8月1日〕苺まづ口にしショートケーキかな 高濱年尾
〔8月2日〕どうどうと山雨が嬲る山紫陽花 長谷川かな女
〔8月3日〕我が霜におどろきながら四十九へ 平田修
〔8月4日〕熱砂駆け行くは恋する者ならん 三好曲
〔8月5日〕筆先の紫紺の果ての夜光虫 有瀬こうこ
〔8月6日〕思ひ出も金魚の水も蒼を帯びぬ 中村草田男
〔8月7日〕広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
〔8月8日〕汗の人ギユーツと眼つむりけり 京極杞陽
〔8月9日〕やはらかき土に出くはす螇蚸かな 遠藤容代
〔8月10日〕無職快晴のトンボ今日どこへ行こう 平田修
〔8月11日〕天上の恋をうらやみ星祭 高橋淡路女
〔8月12日〕離職者が荷をまとめたる夜の秋 川原風人
〔8月13日〕ここ迄来てしまつて急な手紙書いてゐる 尾崎放哉
〔8月14日〕涼しき灯すゞしけれども哀しき灯 久保田万太郎
〔8月15日〕冷汗もかき本当の汗もかく 後藤立夫
〔8月16日〕おやすみ
〔8月17日〕ここを梅とし淵の淵にて晴れている 平田修
〔8月18日〕嘘も厭さよならも厭ひぐらしも 坊城俊樹
〔8月19日〕修道女の眼鏡ぎんぶち蔦かづら 木内縉太
〔8月20日〕涼新た昨日の傘を返しにゆく 津川絵理子
〔8月21日〕楡も墓も想像されて戦ぎけり 澤好摩
〔8月22日〕ここも又好きな景色に秋の海 稲畑汀子
〔8月23日〕山よりの日は金色に今年米 成田千空
〔8月24日〕天に地に鶺鴒の尾の触れずあり 本間まどか
〔8月26日〕天高し吹いてをるともをらぬとも 若杉朋哉
〔8月27日〕桃食うて煙草を喫うて一人旅 星野立子
〔8月28日〕足浸す流れかなかなまたかなかな ふけとしこ
〔8月29日〕優曇華や昨日の如き熱の中 石田波郷
〔8月29日〕ゆく春や心に秘めて育つもの 松尾いはほ
〔8月30日〕【林檎の本#4】『 言の葉配色辞典』 (インプレス刊、2024年)

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