能面のはつしと割れて梅匂ふ 加藤かけい【季語=梅(春)】

能面のはつしと割れて匂ふ

加藤かけい

 年末にメルカリで三十冊三千円の俳句の本の詰め合わせを買った。カラー日本大歳時記や桂信子宇多喜代子鷹羽狩行などの本の間にあったのが加藤かけい句集『種』『甕』だった。
 加藤かけい、勉強不足だな聞いたことがないな、でもこのラインナップに入ってるということはきっと面白いに違いない、しかもいい感じの装丁と名前だし。と、あとで読むかくらいの軽い気持ちで積んでおいたんですよ。バタバタした一月を乗り越えて二月、やっと句集を開いてみたら驚いて声がでました。いい、凄くいい。この子育てと雑事にあたふたする私に足りなかったのはこの耽美さだわ、と一気に心惹かれました。

 菫掘るむらさきの時間に耽り
 金色の脱糞花菜食ひしため

 適当に開いたページに並んでいたのがこの色をテーマにした二句。句集の中には社会性俳句などもあるのですが、この胸を搔きむしるような美醜ないまぜ句にたまらないものがあります。どんな人なのか知りたくてちょっとネットを調べると、こんな丁寧な記事がありました。
—俳句空間—豈weekly: 俳句九十九折(37)俳人ファイル ⅩⅩⅨ 加藤かけい・・・冨田拓也
 名古屋の人で、乙字→虚子→秋櫻子→誓子を経て自ら結社を立ち上げた人らしい。他の句も凄くいい。なんか埋もれちゃってる感あるらしい。それは、もったいないが過ぎるんじゃなかろうか。

 冒頭の句を見てください。かけい句のよさに、視覚だけでない感覚への訴求力の強さがあるんじゃないかと私は思います。
 能面の木の質感と冷ややかさ、静謐。それが「はつし」と割れる訳です。この「はつし」という音を声に出した時の息の多さですよ。この息の多さの余韻のままに「梅匂ふ」。自ら出している息の感触が読みにも影響を与えるでしょう。
 風、感じますよね。能面が割れて、わあっと風が吹き付ける。それは梅の花の匂いがするんです。なんて耽美。あたりは一面何もない空間に違いありません。だって他に情報がないから。句の空間にあるのは能面だけです。梅すら匂ふだけです。抽象的な空間です。それなのに実感があるのは様々な感触があるからです。
 能面が割れるときの音も「はつし」という擬態語の他に感じるはずです。木のカンッと割れる音、木くずの感触。梅の匂いの後には色の気配が紅白ないまぜに漂います。梅の花の重たい濁った匂いもいい。能という此の世と彼の世があいまいな芸能の象徴のような面が割れるとき、一体何が起こるのでしょうか。そんな不穏さもたまりません。能面と向かい合う読者に吹き付けられる梅の匂いは一体どこから来ているのか。此の世じゃなさそうな妖しさです。
 耽美、でも、かけいの句は臭そうでもあるのです。ただ良い香りではなく梅の花の複雑な匂いがこの句のベースを支えています。完璧に美しい能面が割れて現れる濁りを含んだ気配。
 五感への訴求が強いことで、夢のようでありながら足腰のつよい実感のある耽美を味わうことが出来ます。良質な悪夢のような世界。

 読みたい作家の本を探して読むのもいいけれど、偶然に出会う喜びはいいものですね。この世界の未だ出会わざる俳句作家全てに出会うことはできないでしょう。それでも、こうした幸福な出会いがあることを楽しんで行こうと思います。

吉川千早


【執筆者プロフィール】
吉川千早(よしかわ・ちはや)
長野県安曇野市在住
」同人 俳人協会所属
第10回新鋭評論賞受賞
・E-mail:chihayayosikawa@gmail.com
・X @chiyochihaya



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