神保町に銀漢亭があったころ【第70回】唐沢静男

銀漢亭の黎明期

唐沢静男
(「銀漢」「春耕」同人)

去年伊豆から店を訪れた時、カウンターの擦り傷や角の摩耗をなぞりながら、17年間の歳月を感慨深く思ったものである。

伊那男氏の飲み屋の立ち上げ計画は40代半ば過ぎの自身の金融会社整理の頃から模索していたようだ。バブル崩壊を目の当たりにして、また年齢からしてもこの先の職業の選択肢はそう多くは無かったのだ。

料理の腕前は折々の登山の時から皆が感心するほどの手際であった。句友のSさんの店を時々手伝いながら腕を磨いていたがその店も主人の夜逃げで倒産、この世界の厳しさもまた肌に沁み込んだのである。

その間も作句意欲は盛んで、第一句集「銀漢」で念願の俳人協会新人賞を獲得し、前後して銀漢句会の萌芽ともいえる「うら川句会」も立ち上げていた。その時49歳。

開店へ向けて場所を決め「銀漢亭」と名付け準備に入ったが、それまでの段階では句友の故前川みどり氏との話し合いが多く持たれた。デザイナーとして見識があるらしく連れ合いの伊藤ひろし氏をコックに推しながら辛口の意見者であった。彼女との折り合いは伊那男氏にとって最初の試練だったと推測する。光代夫人と私はそのやりとりをただ傍観するばかりであった。

当時で言えば立ち飲み屋の先駆けで、自身で都内の立ち飲み屋の値段やメニューの下調べをするなど、手を尽くして準備をしていたようだ。結局、伊那男氏が店全般と接客を、厨房をひろし氏が担当し、時々光代夫人が店を手伝うといことでスタートしたのである。伊那男氏53歳。

私は客として開店前後の5時には訪れ、伊那男氏が下拵えをしている背中越しに話しながら次の客が来る1、2時間飲むのが楽しみで、4年後の伊豆へ移住するまで一番目の客として常連であった。その頃店はすでに俳句仲間の磁場となっており、近所の店が不思議がるほど最後まで盛ったのである。


【執筆者プロフィール】
唐沢静男(からさわ・しずお)
1949年、伊那市生まれ。「春耕」「銀漢」同人。平成11年「春耕」入会、27年春耕賞。平成23年、「銀漢」創刊同人、25年銀漢賞。句集に『未完の絵』(北辰社、2020年)。俳人協会会員。伊豆在住。


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