神保町に銀漢亭があったころ

【クラファン目標達成記念!】神保町に銀漢亭があったころリターンズ【1】/高部務(作家)


酔いどれの受け皿だった銀漢亭

高部務(作家)


神保町の古書店街が僕は好きだ。

「古本屋に運ばれる本は、読み手を待って書棚に収まっているんだ」

かつての恩師に聞かされた言葉だ。幸運にも、社会人として職を得たのは神保町に本社を構える出版社で、五十年前のこと。

時間が余れば古書店の硝子戸を開けていた。

背表紙に書かれたタイトルと著者名を目で追いながら、目に止まった本をレジに持って行く。こうして選んだ本は、二割ほどは期待外れでも、思いもしない面白さを与えてくれた。

現役を終え、時代物を書き始めてからは、調べ物で頻繁に古書店に足を向けるようになった。目的の本を探し終えた後、何気なく視線を流すその先に、異様な存在感を放っている本が眼に入る。

広げて見ると、予期せぬ資料になる本だったりする。

この本こそが、読み手を待っていた本だろうな。

そんなときの嬉しさと言ったら……。感無量だ。

呑み屋も一緒だ。

神保町には伝統のある気の利いた店が多くある。

三省堂書店の裏手になる、鹿児島焼酎の元祖でもある「兵六」。

蚊の鳴くくらいの音量でシャンソンを流している「ラドリオ」。

タンゴを聴かせる希少な喫茶店「ミロンガ」。

山小屋風の造りで地下にも客席を持つ「さぼうる」。

気の利いた店には、他人の話に口を挟んできたり、どうでもいい井戸端会議のような話題を、したり顔で喋る邪魔者はいない。

気に入った本を手にして向かう馴染みの酒場は、心地がいい。

その店で出くわした飲み仲間とは、それから先、何軒かは酔いどれの足の向くまま気の向くまま、梯子酒になる。

伊那男さんが()っていた「銀漢亭」は、僕の中では比較的新しい店だった。

(ざる)のなかに金を放り込むと、その銭が無くなるまで飲めるんだ」

銀漢亭に何回か足を運んでいた先達がそんなことを教えてくれた。

枯れた木を拾い集めて天井にぶら下げたり、なんとも素朴な飾り気のない店だった。その店が、コロナ禍で店を閉めた。

亭主の伊那男さんはどうしているのかな。

店じまいして何か月後だったか、定かじゃない。

僕は富士山麓に、山小屋を持っている。

そこに電話でお誘いしたところ、背嚢を背負って来訪してくれた。

銀漢亭でのアテも、飾りのない料理の旨さがあった。

我が家の台所に立ち作ってくれた料理も外れることがなく絶品だ。

今年も来てくれるとの連絡を受けた。

店が無くなっても続いている伊那男さんとの交流。

垣根を超えたつきあいとは、こんなものだろう。


【執筆者プロフィール】
高部務(たかべ・つとむ)
1950年生まれ。出版社勤務を経て独立。出版社「ラインブックス」設立。自著「ピーターは死んだ。忍び寄る狂牛病の恐怖」「清水サッカー物語」。七〇年安保時の新宿の街を舞台にした「新宿物語」
三部作。第二四回・伊豆文学賞「由比浦の夕陽」で優秀賞。今年の第二五回・同賞「海豚」で最優秀賞受賞。


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