天女より人女がよけれ吾亦紅
森澄雄
(『所生』)
日本最古の説話集といわれる『日本霊異記』には、吉祥天女像に恋をしてしまう男の話がある。吉祥天女とは、元々バラモン教の女神で、のちに仏教に入って天女となる。顔かたちが美しく、衆生に福徳を与えるという女神。いわゆる男の理想の女を偶像化したのが吉祥天女像である。ふっくらとした頬と体型は信仰が広まった当時の美人の特徴。髪型や服装も当時の最先端ファッションであった。
20代のころ、正倉院に残る美人画「鳥毛立女」に似ていると言われ喜んでいたが、今見ると微妙である。天女像は、時代に合わせ絵師や仏師が美しく書き換えてゆくが、「鳥毛立女」は古代より変わらない。古代に生まれていたら、私は相当の美人だったに違いない。
天女との恋は、羽衣伝説が有名である。いつか天に帰ってしまうかもしれない女との儚い夫婦生活。男は、天女が去ってしまわないよう羽衣を隠すなどの努力をする。結果的に、女は子供を残し天に帰ってゆく。
羽衣伝説は、私が妄想するに「去ってしまうことが分かっていたならもっと尽くしたのに」と後悔した男が生み出した物語なのではないかと思う。羽衣伝説成立前後には、失踪した妻を追いかける夫の話が存在する。料理上手な妻を罵ったがゆえに逃げられてしまう天之日矛(アメノヒボコ)伝承とか…。
古来より、女は男に尽くすが、男はそれが当たり前だと思ってしまう。恋人よりもさらに理想の女を追い求め、一緒にいてくれる女に横柄な態度を取ったり、邪険にしたりする。だが、去っていった女ほど魅力的な女はいないのだ。
一方で、理想の女を追いすぎて結婚できない男もいる。プライドの高い男の妄想より生まれたのが天女でありアイドルである。
天女より人女がよけれ吾亦紅 森澄雄
吾亦紅は、痩身で硬い花を咲かせる。今であれば八等身以上のモデル体型。短髪を思わせる花の形もクールで格好良い。だが、日本古来の理想的美女ではない。顔も腰もふくよかな天女のような女は、情が深いとの思い込みもある。吾亦紅は、日本人男性が描く理想的女性像〈天女〉とはかけ離れているのである。だけれども、偶像の天女よりも現実の生身の痩せた女の方が儚げで愛おしかったのであろう。それは、自分に尽くすがゆえにやせ衰えた情の深い女であったのだ。男にとって理想の女は偶像でしかない。男は、現実の女が自分にとって、かけがえのない大切な人であるかどうかを見定められた時、はじめて本当の大人の男になるのだろう。
当該句は、昭和63年、作者の外出中に心筋梗塞にて急逝した妻への追悼句である。妻を詠んだ句を多く残す作者は、人女である妻を大切にしていた。ちなみに人女は、作者の造語である。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
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