天上の恋をうらやみ星祭
高橋淡路女
(『淡路女百句』)
星祭とは、七夕のことである。七夕祭は現在、7月に行うところが多いが、俳句では旧暦に合わせ8月の季語とする。旧暦の7月7日は、新暦の8月の半ばから終わりの頃にあたる。立秋を過ぎた夜空は涼しく澄みわたり、天の川が色濃くなる。七夕は、天の川に隔てられた二つの星が年に一度の逢瀬をする日である。掲句の「うらやむ」という感情を伴う動詞は、現代の俳壇では回避する傾向にある。だが、年に一度しか逢えない恋を「うらやむ」ことにより、もう二度と逢えない人を恋う作者の状況が見えてくる。
高橋淡路女は明治23年神戸生まれ。12歳の頃、両親とともに東京佃島に転居し、上野高等女学校を卒業。10代の頃より句作をはじめる。大正2年、23歳で結婚し、身籠ったものの翌年に夫が病死してしまう。夫の死後、長男を出産し、寡婦のまま子供を育てた。大正3年、「ホトトギス」に入会し、高浜虚子に師事。長谷川かな女や阿部みどり女と交流を持つ。大正14年、35歳の頃、「雲母」に入会し、飯田蛇笏に師事。昭和12年、47歳の時に第一句集『梶の葉』を出版。870句を収録した句集の序文にて蛇笏は、「今日において女流界第一に位する」と称賛した。昭和26年、『淡路女百句』を出版。高浜虚子、飯田蛇笏から学んだ写生と古典の知識に彩られた情緒ある作風が高い評価を得た。
佃島での暮らしや東京の下町を詠んだ句は、江戸の浮世絵から抜け出てきたようだ。
納涼舟女橋男橋をくゞりけり
草市やついて来りし男の子
そろばんをおくや師走の女房ぶり
初髪や眉にほやかに富士額
我が門やよその子遊ぶ手毬唄
葛飾の里より来たり若菜売
針納めちらつく雪に詣でけり
もの縫ふや寒紅売を心待ち
古典の知識が垣間見える句は、万葉集や八代和歌集の歌をベースとしている。枕詞、歌ことばを詠み込んだ和歌のような俳句は、作者の持ち味となってゆく。
むかし業平といふ男ありけり燕子花
白妙の雪の傘さし人きたる
あまさかる鄙のをとめも針供養
敷妙の古き枕や宝船
涅槃像女人は袖に涙かな
青丹よし奈良の土産の木彫雛
貝雛やまこと妹背の二人きり
写生の句は、単なる描写では終わらず、そこはかとない情感が漂う。
蛍火をとり落したる青さかな
ふくよかに屍の麗はしき金魚かな
折りとつて珠のゆれあふ吾亦紅
こそばゆくとんぼに指を噛ませけり
渋柿のつれなき色にみのりけり
むらさきに暮るゝ障子や雛の宿
唇少しあけておはせる女雛かな
桃の花活けこぼしたる蕾かな
春蘭やみだれあふ葉に花の数
まはりやむ色ほどけつつ風車
春の日やたまをはぐくむ真珠貝
散り牡丹どどと崩れし如くなり
大正期に若くして寡婦となり、女手一つで子供を育てた苦労は計り知れない。淋しさを感じることが多かったのだろう。あるいは、女のはかなき身を詠むのもまた、和歌の影響なのかもしれない。
炎天を一人悲しく歩きけり
風鈴に何処へも行かず暮しけり
さりげなくゐてもの思ふ端居かな
家出れば家を忘れぬ秋の風
頬杖に深き秋思の観世音
うきことを身一つに泣く砧かな
淋しさに馴れて住む身や帰り花
独り身や三日の朝の小買物
さゝやかな夕餉すまして暮遅し
現し世のきのふは過ぎぬ桜狩
唯一の支えは夫の忘れ形見である子供であった。悲しいことも嬉しいことも共有し合える存在。日常の何気ない発見を教えてくれる存在でもあった。
子とあれば我が世はたのし金魚玉
二人居ることの嬉しき火桶かな
初日記子は書くことのなしといふ
春泥や靴音重く子の帰る
我れ泣けば子も泣く春の愁ひかな
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