
日常や椿一輪が重たし
金子皆子
(『花恋Ⅰ』)
金子皆子『花恋』を読む【前編】
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金子皆子は、大正14年、埼玉県秩父郡生まれ。昭和22年、22歳の頃、6歳年上の金子兜太と結婚。兜太の一目惚れだったという。壮絶な戦争体験の後に、日本銀行に復職した兜太であったが、労働組合の専従初代事務局長を務めたため、支店勤務の窓際族(兜太いわく窓奥族)となる。皆子は、子育てをしながら兜太を支える一方で、俳句を始める。昭和28年、28歳の頃、兜太の所属する「風」に投句開始。昭和37年、兜太の「海程」創刊に参加し、発行事務一切を担当。昭和63年、第35回現代俳句協会賞受賞。平成17年、『花恋』で第1回日本詩歌句大賞受賞。平成8年、70歳の頃より腎臓癌を患い、平成18年、81歳死去。句集に『むしかりの花』(昭和63年)、『黒猫』(平成9年)、『山樝子』(平成14年)、『花恋』(平成16年)、遺句集『下弦の月』(平成19年)がある。
「海程」の母ともいうべき皆子は、兜太いわく、感性が良く「澄んでいて、すばらしくデリケートで、私より俳句の資質があった」とのこと。多くの俳人に慕われてきた皆子であったが、最も話題となった句集は、八年間の闘病生活を詠んだ『花恋』であろう。ⅠとⅡに分かれた二冊組の句集で、1186句を収める。そして、単なる闘病句集ではない。タイトルの通り、恋の句集なのである。今回は、『花恋Ⅰ』の内容について、恋の句を中心に紹介したい。
句集は、「紫雲英田」の章よりはじまる。冒頭に長い前説がある。
一九九六年の晩秋の山で転倒する。東京の醫師により右腎裂傷との診断を得て、その治療を受けるが、二カ月余の後熊谷の総合病院に入院、悪性腫瘍が発見され、右腎摘出の手術を受ける。手術前の一カ月の入院検査期間に想念の漂いを記録したものを、俳句の形式でまとめる。一日も休まず長男の嫁智佳子訪ねてくる。
金婚なり霜月山の斜面の急
紅葉終る斜面おりてゆき転倒
茫然自失紫雲英の色の尿恐し
二月十六日、S・Eさんの御推薦で埼玉県厚生連熊谷総合病院泌尿器科へ。中津裕臣先生の御指示を受ける。
導きの縁の醫師の目に安らぐ
二月十七日、急遽入院、主治醫中津裕臣先生
入院しますか問いかけに花ありて託す
句集の背景は、ここまでで分かるようになっている。転倒により右腎裂傷との診断があった後、地元の熊谷総合病院にて悪性腫瘍、癌が発見され、右腎摘出の手術を受ける。尿が紫雲英の色であると詠み、以後、紫雲英は、体内の病の色に喩えられるようになる。そして、想い人となる醫師の名前が登場する。第一印象は〈安らぐ〉〈目〉であった。「入院しますか」という問いかけに〈花〉を感じる。句集巻末の安西篤氏の跋文によれば、醫師は当時40歳前後でまばゆい存在であったとのこと。
腎摘出か朝日子の醫師と思いぬ
金縷梅顔被う両の手も黄色
花辛夷こころの旗と思う朝
鬼手仏心とあり体内を流れる紫雲英
手術から入院中の句である。主治醫を朝日子と讃え、自身の黄疸を金縷梅に喩えた。真っ白な辛夷の花を旗として仰ぐ。こころの旗は白衣の主治醫であろう。〈鬼手仏心〉とは外科医を表す言葉で、メスで身体を切る鬼の手は、患者を直したい仏心に基づいているという意味である。体内を流れる病の血もまた仏心のようなものなのだろう。つまり、病により主治醫と出会えた縁を表現したかったように思われる。
智佳子マーガレット回るマーガレット
真土の見舞
蒲公英の花の数母を叱る子に
孫ら起立す芽吹き待つ木の見舞かな
「あとがき」にて病は一人ではできないことを述べているように、家族の支えがあっての闘病であった。嫁の智佳子、長男の真土、孫たち。句集には家族友人知人の名が多く登場する。名前もまた詩の言葉なのである。
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