滴りてふたりとは始まりの数 辻美奈子【季語=滴り(夏)】


滴りてふたりとは始まりの数

辻美奈子
(『真咲』)


 旧約聖書のアダムとイブ。日本神話のイザナギとイザナミ。男女の交合より神話は始まる。その後の神話も人の歴史も英雄は、独りでは事を成さない。伴侶や相棒の力を得て国を創り、政治を回してゆく。

 『古事記』の大国主命(おおくにぬしのみこと)は、須佐之男命(すさのおのみこと)の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)を娶り葦原中国(あしはらのなかつくに)を統治するよう舅に命じられる。大国主命は、生まれながらの逆境を乗り越え、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)という参謀を得て国創りを行う。

 時代を経て大海人皇子(後の天武天皇)は、兄の天智天皇の死後、壬申の乱を起こす。背後には妻であり後の持統天皇となる鸕野讚良(うののさらら)がいた。夫の死後、天皇となった妻は、藤原不比等という参謀を得て、国家事業を進めることとなる。鎌倉幕府を成立させた源頼朝は、妻の北条政子がいなかったら流人のままであった。戦国時代の豊臣秀吉もまた、妻のねねや黒田官兵衛などの支えにより天下人となる。英雄の背後には、英雄以上の能力を発揮する黒幕がいたのである。

 独身時代住んでいた世田谷区に等々力渓谷があった。就職して数年が過ぎた頃、2週間入院するほどの病を患った。退院後も電車には乗るが会社の門をくぐることができず、休む日々が続いた。会社に欠勤連絡をすると急に元気になり、等々力渓谷を歩いた。苔の合間より生み出される雫が二つ重なると一つの流れを作る。ぽたぽたと落ちる雫を日が暮れるまで眺めていた。それは、不思議だなとか絶え間ないとか川を生む力とかそんな発想には及ばない。ただ、落ちてゆく雫が別の雫と結び合い、流れとなる作業をぼんやりと見つめていた。

 このままではいけない。そんな思いが生まれ、再就職した。就職先は等々力渓谷を過ぎたところにあった。毎朝駅を降りた後、等々力渓谷を抜けて出社し、帰りもまた渓谷を見ながら帰る。遠回りになるのだが、楽しい通勤であった。等々力渓谷の滴りは、私に生きる希望を与えてくれたのだ。

 その後は、派遣社員として職を転々とした。とある会社で、元キャリアウーマンのKさんと一緒に仕事をすることになった。Kさんは、キャリアを捨てて結婚したのだが子供に恵まれず、鬱々としている日々を解消するため、派遣社員として働いていた。お金を稼ぐために働いているわけではない。いつクビになっても良いという背景もあったのだろう。派遣社員なのに、次々と企画を提案し上司と闘っている。当時の派遣社員は、企業の雇われの雑兵であり、上司に苦言を呈し企画を提案するなどあり得なかった。だが、Kさんは、新しい趣味でも見つけたかのように生き生きと輝いていた。

 キャリアは違うが同じ派遣社員としてKさんに憧れ応援したいと思った。Kさんの無謀な企画が通るようにフォローをしたり、別の視点からの提案もしたりした。急に仕事が楽しくなった。Kさんも私も余計な話はしない。一緒に食事をすることも飲みに行くこともなかったが、心の通じ合う同志だと思った。家庭の事情で退社することになったKさんは、私に言ってくれた。「あなたのフォローがなければ私の企画は通らなかったし、その企画もあなたの発言によりヒントを得た。才能があるのだから頑張りなさい」と。

 思い返してみると私には、いつも生きる力を与えてくれる人がいる。不器用な私は、器用な人に憧れるが、器用な人もまた不器用な一面を持つ。Kさんは、仕事はできるが気が強く、反発も多かった。末端の事務作業をする人に多大な負担を追わせる企画を提案したり、上司の仕事を否定したりするような発言が多かった。格好良いのだけど、それでは仕事が回らない。寝る間も惜しんでKさんの企画実現に尽力した。裏方の仕事だがとても楽しかった。

 そんな不器用な私ではあったが、運命的な出逢いにより結婚することとなる。私も夫も俳人。お互い不器用な一面を持つ。私の大雑把な発想を夫が見事に現実化することもあれば、夫の破天荒な発想を実現するために私が緻密な計画を練ることもある。要は、足りない者同士が結婚して、一つの仕事を成し遂げているのである。子供のいない夫婦ではあるが、それぞれの役割分担を把握し、小さいながらも何かしらの流れを紡いでいるのである。

  滴りてふたりとは始まりの数   辻美奈子

 器用な夫は、器用な人の才能を伸ばしさらなる高みを目指すが、不器用な私は不器用な人を応援する。生きることに不器用な人というのは、才能の原石だと思うからだ。

 夫も私も自尊心が強い欠陥動物だから、衝突し合うこともある。だが、ぴたりと合致すれば、大河を生むこともあるのかもしれない。日本神話のイザナギは、イザナミに言った。「われの成り余る部分と、汝の足らざる部分を合わせよう」と。その結果、日本列島が生まれた。

 夫は、とにかくよく喋る。要らぬことまで話す。対して私は無口。言わなければいけないことも言えない。夫のはみ出たものを私が飲み込み、夫は、私の飲み込んだものから必要なものを抽出し本当に必要なこと主張をする。それは、企業の役割分担に似ている。

 営業事務は、話し上手な営業担当が企業との契約を締結させるために、資料を整え微力ながら助言をする。さらには、営業担当が口八丁手八丁で取ってきた契約をフォローして回していくのは事務職の役割。適材適所が上手くいけば会社は発展する。

 役割分担というと味気ないのだが、人の能力には偏りがある。その偏りを埋め合わせられる伴侶や相棒に出逢えれば、小さな雫も大河となる。あくまでも理想論。私達の小さな滴りは、これから膨らんでいくのだ。

篠崎央子


辻美奈子さんの句集『真咲』はこちらで読めます ↓】

第28回俳人協会賞新人賞受賞!

◆精選俳句叢書「雪」シリーズ
旧姓といふ空蝉に似たるもの
こうした作品にも、人間のみならず、生あるものすべてに対する観照がうかがえる。美奈子俳句の世界は、ますます深く、透明度を増して行くにちがいない。
(栞より:片山由美子)

◆自選十五句より
桜満開おのが身に皮膚いちまい
春灯やをとこが困るときの眉
旧姓といふ空蝉に似たるもの
泣くときにつかふ腹筋豊の秋
天空に月ひとつわが受精卵
身ふたつのなんの淋しき冬麗
数へ日の閂ゆるき父母の家
ゆつくりと縄締まりゆく花の雨
大樹いま水さかのぼる立夏かな
光年は涼しき距離ぞ生まれ来よ


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

>>〔58〕みちのくに戀ゆゑ細る瀧もがな   筑紫磐井
>>〔57〕告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む 恩田侑布子
>>〔56〕愛されずして沖遠く泳ぐなり    藤田湘子
>>〔55〕青大将この日男と女かな      鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花   中村苑子
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>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
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>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
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>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
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>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
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