呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉 長谷川かな女【季語=芙蓉(秋)】

呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉

長谷川かな女
(『長谷川かな女全集』)

 「可愛さ余って憎さが百倍」という諺があるが、愛おしい気持ちも行き違いで憎しみに変わることがある。恋の逆恨みをする人が言う捨て台詞は大抵「惚れさせた方にも責任がある」である。

 男は、恋の気持ちが冷めてしまうと甘えもあってか、文句が多くなり理不尽な発言をするようになる。女は、自身の愛の気持ちを証明するために、尽くしてしまう。「こんな酷いことを言われても、我が儘な貴方を愛せる人は私しかいない」と思い込む。相手の仕打ちを許せなく思いながらも許すことが愛だと信じてしまうのだ。

 男の言い分としては、気持ちが冷めた女に別れを告げる勇気がなく、嫌われるように演じただけなのだと。「わざと振られてやるのさ」みたいな心境だろうか。美しき恋の想い出を醜くするような演出などいらない。未来の無い未来は早急に断ち切って貰いたいものだ。女に呪われるような男は優柔不断で小心者。永遠に呪われてしまえとも思うのだが、そこが愛おしい。

 芙蓉には、白芙蓉、紅芙蓉、酔芙蓉がある。朝に開き夕方に萎む芙蓉は、また翌朝開く。恋をして諦めてまた再燃しての繰り返し。愛と憎しみの日々は、儚くも美しい。

 当該句は、2005年『増殖する俳句歳時記』にて清水哲男氏が取り上げ、話題となった。戸板康二「高浜虚子の女弟子」(『泣きどころ人物誌』)の一文が紹介されている。

 「(久女の)ライバルに対する意識は旺盛でつねに相手の俳句を注視し、思いつめてかな女の句が久女より多く誌上にのると怒り狂い、〈虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯〉という句をわざわざ書いて送ったりするが、かな女のほうは〈呪ふ人は好きな人なり花芙蓉〉と返句する。軽くいなされて久女はカッとなった」

 実はまったくの誤伝とのこと。当該句は、久女の句よりも十五年も前の作らしい。清水哲男氏は、ゴシップの正体は、「呪ふ」の主体がよくわからないところであるとし、「まずこの句をこそ呪いたくなってくる」と締めくくる。

 杉田久女の高浜虚子に対する執着と虚子に疎まれた顛末を思うと切ない。だが、プライドの高い久女の句とかな女の句は、女性俳人同士の壮烈な応酬と見なされ誤伝とはいえ、面白い。

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