バナナフラペチーノ国旗にこぼしちゃった 神野紗希

【木曜日】は2か月交代で〈大学俳句会〉のみなさんにご執筆いただいています。「愛媛大学俳句研究会」からのバトンが渡ったのは「北大俳句会えぞりす」最終回はふたたび小西電波さんです。


バナナフラペチーノ国旗にこぼしちゃった
神野紗希


小西電波(北大俳句会「えぞりす」・北海道大学短歌会・noi)


2006年から2007年にかけて、歌壇では社会詠論争が興った。発端となったのは、『かりん』(注12006年11月号に掲載された小高賢(注2の時評「ふたたび社会詠について」である。小高は、同年に発行された岡野弘彦(注3の歌集『バグダッド燃ゆ』について、イラク戦争下のタリバン政権に共感を寄せる歌群であるものの、日本がアメリカ側に加担しているという現実に目を塞いでいると指摘する。その上で、「作者が外部に立っていることで、読み手に題詠的にしか感受されない」と論じるのだ。この時評に対して、大辻隆弘(注4・吉川宏志(注5らは大きく反発し、翌年にはシンポジウム「いま、社会詠は」が開催された。

ここでは、「下の世代」の社会詠に対する小高の評価に注目してみたい。小高は、〈おそらくは電子メールでくるだろう二〇一〇年春の赤紙/加藤治郎(注6『環状線のモンスター』〉や〈NO WARとさけぶ人々過ぎゆけりそれさえアメリカを模倣して/吉川宏志『海雨』〉などを引いて、次のように述べる。

私は、このような作品にかなりの危惧をもつ。一体、社会と自分との関係をどう考えているのだろうか。危機感がゼロのように見えてしまう。加藤の電子メールと赤紙のとりあわせ。どう読んでも他人事である。そんなことが現実的にありえない。何かをいえたというのはかなりの錯覚ではないか。吉川宏志の場合も同様である。だからどうなのかという視点。それに自分は何なのだろうという照り返しが少ない。(中略)加藤たちは内部から詠もうとする。自分の気分に正直に対象を掬おうとする。すると、作品は観察に終わる。つまり自分たちの言動が、対象やテーマに近接できないという断念が透けて見えてしまう。

小高賢「ふたたび社会詠について」『いま、社会詠は』青磁社、2007年、11~12頁

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 論争から20年が経った。
 時代は変わった。戦争は、もはや「他人事」ではない。

 労働問題などを取り上げている雑誌『POSSE』。63号(2026年8月号)の特集タイトルには、次の短歌が引かれている。

戦争に行きたくないと言うけれど戦争が来るのはどうだろう
三上春海『よい島』稀風社、2017年

 三上は1991年生。同人誌発行所「稀風社」を主宰しており、第33回現代短歌評論賞を受賞している。

「戦争に行きたくない」――誰もがそう思っているだろう。過酷な戦地に赴いて飢餓に苦しみ、あげくの果てに客死する。そんな青春なんてまっぴら御免だ。
 このように語られるときの戦地は、もっぱら「赴くもの」として想定される。私たちは生活の場から戦いの場へと「出征」してゆくのだ。戦争に行かないという選択ができるならば、戦争と関わり合いを持たないで済む……本当に?
 2026年2月末にホルムズ海峡が閉鎖されてから、日本では原油やナフサの不足が大きな問題になった。海を隔てた遠くの国の戦争が、私たちの生活を脅かしはじめている。

 国内政治に目を向けてみても、防衛費が際限なく増え続けてゆき、官邸幹部からは核兵器保有論も囁かれている。国旗損壊罪の曖昧な条文や国家情報局の設置には批判も多い。最近では、陸上自衛隊の現地情報隊が民間人の「思想・信条」「愛国心」「性的嗜好」などを調査していたと報じられている(注7)。ここに戦前回帰の動きを見て取ることは難しくないだろう。
 戦争がこちらへやって来る。そんな時代に詠まれる「若い世代」の社会詠は、どのような様相を呈しているのだろうか(注8)。この夏に発表された同世代の作品を見てゆきたい。

戦争から遠い廊下を抜けてもう残暑の奥の集中講義
中島丈多郎

 9月6日の「第3回大学短歌トーナメント in 関西」(注9)に提出された歌。中島は京大短歌と新京大俳句会(注10)に所属している。
 引用歌は、かつて京大俳句に属していた渡邊白泉の〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉を意識したものであろう。残暑厳しい夏休み。廊下の奥には教室があって、集中講義が行われている。季節の移り変わりを感じつつ学問に打ち込むことができるという環境は、まさしく「戦争から遠い」ものである。白泉の句は、廊下の景の描写に留まっており、読者に閉塞感を与えるが、中島の歌では、廊下を抜けた先の講義が描かれている。狭くて暗くて人のいない「廊下」から、広くて明るくて学生で満ちている「教室」へ。読み下すうちに視界が開けるような構造だ。
 ここで考えたいのは、「戦争から遠い廊下」という措辞がこの歌の主体から発されたのはどうしてか、ということである。真に戦争から隔絶された環境で暮らしているならば、自分の生活が「戦争から遠い」ことを意識する必要はない。この歌の主体は、自分の通り抜ける廊下が戦争から近かった可能性に思いを馳せている。80年前にも、同じ廊下を歩いていた同い年の学生がいただろう。あるいは今現在、異国の廊下で戦争を前に立ち尽くす大学生もいるのではなかろうか。

野を焼いて焼かれて姉妹都市となる
柊木快維「霧の系譜」

 ネットプリント「聖禁派2」<https://note.com/nifty_fowl7311/n/n15b2eaee9621>から引いた。柊木は2003年生まれ。愛媛大学俳句研究会などに参加しており、第5回全国俳誌協会新人賞や第9回俳句四季新人賞奨励賞を受賞している。
 親善を目的に締結される姉妹都市の協定。両都市間の交流は基本的に市民の間で行われるものだ。中学生や高校生が語学留学に赴いたり、互いの都市の文化交流イベントに参加したり。個人と個人、あるいは文化と文化との関わりが意識される制度と言えよう。
 しかしながら、国家間の歴史を紐解いてみると、そこには「野を焼いて焼かれ」た過去がある。たとえば、稿者の住む札幌市が姉妹都市協定を締結しているのは、次の5都市だ。アメリカ合衆国・ポートランド、ドイツ・ミュンヘン、中国・瀋陽、ロシア・ノボシビルスク、韓国・大田広域市。その多くは、かつて「日本」と戦争をした国だ。私たちは侵略し、侵略されたのだ。私たちが立つこの土地には、どこまでも戦争の歴史が刻まれている。

色鳥よ文系を徴兵したよ
下谷陽太

 8月に行われた第29回俳句甲子園に提出された句。下谷は海城高校3年生。〈明日には今日は昨日になる 泳ぐ〉が同大会最優秀句を受賞した。作歌にも取り組んでおり、第16回牧水・短歌甲子園に提出された〈花は散る葉っぱは落ちる樹は朽ちるそれを生きるとひとは言いました〉はXで反響を呼んだ。

 1943年10月、東条英機内閣は理工医系・教員養成学校以外の大学・初等専門学校に通う、満20歳に達した学生・生徒の徴兵を決定した。いわゆる「学徒出陣」である。即時的な成果を示すことのできない傾向にある文系の学問は、往々にして軽んじられる。戦時ならばなおさらである。
 掲句の主体は為政者だろうか。「文系」という一語で括られる数万の学生には、それぞれ修めていた学問があっただろう。家族や友人に囲まれていた者も少なくなかったはずだ。一人ひとりの学生には、当然それぞれの生活があって、それぞれの人生がある。けれども、学生を「兵力」として眼差すとき、それぞれの固有性は捨象されてしまう。彼らは駒のひとつに過ぎない。
 美しい色鳥に対して「文系を徴兵したよ」と語りかける。語りかける側には、色鳥に気を留める余裕がある。色鳥から季節を感じる余裕がある。そこには日常がある。では、徴兵された側は?
 これらの作品に共通しているのは、私たちの日常と「戦争」とが、地続きのものとして表象されていることだ。両者が断絶したものとして扱われている加藤や吉川の歌とは異なっている。戦争は自分事だ。ここに私たちの世代の危機感を見て取る、というのは稿者の深読みが過ぎるだろうか。

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バナナフラペチーノ国旗にこぼしちゃった
神野紗希

 本稿のタイトルに引いた句は、2026年6月29日、神野のX< https://x.com/kono_saki/status/2071406111849390315?s=20>に投稿されたもの。
 〈憲兵の前で滑つて転んぢやつた/白泉〉を彷彿とさせる句だ。憲兵の前で滑って転ぶことの何が悪いのだろう。誰しも滑って転ぶことはあるし、それは憲兵の前とて例外ではないはずだ。しかし、それを許さない現実がある。憲兵の前で転んでしまうなんて、お前の精神が弛んでいる証拠ではないか。国家を総動員して戦争に臨むべき時局である。転んでいてどうする。そういった声が聞こえてくる。
 バナナフラペチーノも同様である。フラペチーノをこぼしてしまうことは、さして重大な過失ではない。服にこぼしたなら洗濯すれば良いし、本にこぼしてしまったなら新しい本を購えば良い。けれども、国旗にこぼしてしまったならば、問題はそう簡単に片付かない。我々の日章旗にフラペチーノをこぼすなんて、何事か。我が国を侮辱しているのか。そもそも、国旗にかかってしまうような場所でフラペチーノを飲むなんて、けしからん……本当に? この句の主体は、「こぼしちゃった」と言って悪びれてみせる。「こぼしちゃった」ことは、「こぼしちゃった」ことでしかない。それ以上の意味は持ちえないよ、と言ってみせるのだ。
 白泉のいる時空と、私たちがいる時空。両者は接続している。戦争は、決して過去のものではない。

(注1)短歌結社「歌林の会」が発行する歌誌。1978年創刊。現在は馬場あき子を発行人、坂井修一を編集人とする。
(注2)1944年~2014年。歌人。歌林の会。2000年『本所領国』で第5回若山牧水賞。講談社の編集者として「選書メチエ」を立ち上げたことでも知られる。
(注3)1924年~2026年。歌人。1973年『滄浪歌』ほかで第7回迢空賞。2007年『バグダッド燃ゆ』で第22回詩歌文学館賞。長年宮中歌会始の選者を務めた。
(注4)1960年~。歌人。未来短歌会編集発行人。『未来』編集発行人。2003年『デプス』で第8回寺山修司短歌賞。2024年『橡と石垣』で第19回若山牧水賞。
(注5)1969年~。歌人。塔短歌会主宰。2006年『海雨』で第11回寺山修司短歌賞。2024年『雪の偶然』で第58回迢空賞。
(注6)1959年~。歌人。未来短歌会選者。1988年『サニー・サイド・アップ』で第32回現代歌人協会賞。口語短歌「ニューウェーブ」の担い手として注目される。
(注7)熊本日日新聞や沖縄タイムス、朝日新聞などが報じている。
(注8)なお、歌人で文芸評論家の髙良真実(竹柏会)は「戦争がリアルになりすぎた」(note、2025年7月19日、<https://note.com/nukimidaru/n/n90b2b2f2e407>)において、木下龍也・岡野大嗣の歌を取り上げ、「戦争」の扱われ方の変遷について論じている。
(注9)西日本の学生短歌会が集う歌合の大会。京大短歌主催。<https://x.com/kyotantweet/status/2064976798874845277?s=20>
(注10)2024年に発足した学生俳句会。ホームページには、「新興俳句運動の中心となった「京大俳句」を歴史的背景として意識」している旨が綴られている。

(小西電波)


【サークルプロフィール】
北大俳句会「えぞりす」
2021年設立。北海道にゆかりのある大学生・短大生・専門学生によって構成されている。年2回刊の有志機関誌『旗手』を発行(オンライン販売はhttps://hokudaihaiku.booth.pm/)。文学フリマ東京43(2026年11月8日)に出店予定。
Eメール:haiku.ezorisu@gmail.com
X:https://x.com/hokudaihaiku
Instagram:https://www.instagram.com/hokudai_haiku/


小西電波(こにし・でんぱ)
2007年生。北大俳句会「えぞりす」・北海道大学短歌会・noi。中北海道現代俳句協会会員。第12回詩歌トライアスロン三詩型鼎立部門選外佳作。学生短歌会合同夏合宿2026幹事代表。


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