【俳書探訪】片山由美子『鷹羽狩行の百句』(ふらんす堂、2018年)

この点で、「天狼」で同時期に若手作家として活躍していた堀井春一郎(1927-1976)の文学青年的な「暗さ」もまた、鷹羽狩行という作家の「明るさ」を語る上では見逃せないように思う。また、〈もがり笛風の又三郎やあーい〉や〈たまねぎのたましひいろにむかれけり〉のような俳諧味ある句柄で、存在の根源的なさびしさを詠みつづけた上田五千石(1933-1997)のことも思い出しておく必要がある。

1954年、「天狼」の東京支部を中心に、秋元不死男が「氷海」を創刊主宰したとき、春一郎27歳、狩行24歳、五千石21歳だった。図式的に言えば、「暗くて重い」のが春一郎、「明るくて重い」のが五千石、そして「明るくて軽い」のが狩行であるように思われるが、むしろ特筆すべきは、鷹羽狩行における定型の遊戯性が、人間探求派や社会性俳句といった俳壇的流行とは一線を画していたことである。

苦悩する青年を特権的に主題化する文学への信頼や、サルトルの実存主義などを背景に社会にアンガージュマンしていく怒れる若者とは異なり、過度な政治性からも文学性からも距離を置くという方針は、むしろ当時は結社外との接触を行っていなかった「ホトトギス」に近いものであり、それゆえに「政治の季節」が終わって日本が豊かになっていく1970年代、つまり女性たちが大学の、わけても文学部にこぞって進学していく時代に、俳句の大衆化に貢献することにつながった。

狩行が会社勤めをやめ、俳句一本で生きる決意をしたのは四十七歳のときのことである。(……)俳句ブームといわれる時代で、俳句人口はどんどん増えていった。狩行が雑誌、テレビなどを通して啓蒙的活動を活発に行った時期がそれに重なっている。(……)昭和から平成という時代に、鷹羽狩行の残したものは大きい。平成の終わりを迎えたいま、それを改めて思う。

と、このように片山は同書のなかで書いているのだが、たしかに、平成の終わりにいたるまでの「半世紀」をいま、振り返るときにきているのかもしれない。つまり、振り返るべきは平成の「30年」だけではないのだ。

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