
雑音と たちまち夜のまんじゅしゃげ
片山花御史
『白い葦』(昭和60年、現代俳句協会)より。作者は1907年、兵庫県生まれ。掲句は前書きを付され、以下のように続く。
佐世保で 二句
雑音と たちまち夜のまんじゅしゃげ
夜の花に 川波くろくくろくよせる
河原に数本咲く曼珠沙華。みるみるうちに夜になり、闇と同化していく。体感としてはあっという間のように感じていそうだが、実際には長くその場にとどまって視界に収め続けていたことが推測される。続く句では曼珠沙華の花の姿が曖昧になるほどに暮れて、わずかな光を反射した川の波が近づいてくる様子が描かれている。
曼珠沙華は不気味な言い伝えや毒性があったり、不思議な形や細い茎が群生する特徴を持ち、そもそもあまり平穏な美しい花の印象はないだろうが、掲句を文字として捉えたときに、表記面の工夫から、危険だとわかっていても魅了されて身動きが取れないような恐ろしさを感じた。音として聞くと印象がまた大きく変わりそうである。
私は初読以来、周辺の、おそらくせせらぎや風の音を「雑音」と捉えている主体が、中心にあるべきだと思っていた音の正体が気になり続けている。静寂を求めたくなるほどに曼珠沙華に惹きつけられていたというのが一般的な解釈かもしれないが、何かを聴きたがっていたような気がしてならないのである。特に平仮名の塩梅や、感じ入っているような一字空け、続く「夜の花に」句のリフレインからは、繊細な糸を手繰り寄せるような探索の雰囲気がある。また、2句を通して見えてくる、徐々に視野が狭まった後の感覚を否応なく研ぎ澄まされている姿からは、危うげで美しい、人間の野生的な側面が感じられる。
先の俳句甲子園で最優秀句に輝いた「明日には今日は昨日になる 泳ぐ/下谷陽太」の一字空けの絶妙さはすでに語り尽くされているような気もするが、個人的には思考や意味を放棄する勇気を持つための時間・過程が表出した表現なのだと解釈している。小さな空間に委ねたり、逆に薄めたりする形式の面白さはある種の不変的な感覚なのだろうと再認識した。
(野城知里)
【執筆者プロフィール】
野城知里(のしろ・ちさと)
2002年埼玉生。梓俳句会会員、未来短歌会会員。第12回星野立子新人賞、第70回角川俳句賞佳作。
【管理人より】ハイクノミカタ(2025.1月-2月)連載分もお見逃しなく!(全8回)
