久留島元のオバケハイク

【連載】久留島元のオバケハイク【最終回】方相氏


方相氏戟をかまへて突つ立つたり

松尾いはほ
昭和五年『ホトトギス雑詠選集冬』

『ホトトギス雑詠選集』「追儺」の項目より。松尾巌は京都帝国大学医学部で内科教授を務めた。大谷句仏に俳句を学び、のち五十嵐播水、鈴鹿野風呂、高浜虚子らに師事した。

追儺は現在では節分の豆まき行事として定着しているが、本来は方相氏という四つ眼の怪人が鬼をはらうという中国由来の行事で、掲句は古式に基づいた方相氏を詠んでいる。古式の追儺式を再現している場所はいくつかあり、有名なのは平安神宮である。

国会図書館所蔵の『歴史写真』大正8年2月号に、

京都なる風俗研究会は多少七年十二月三十一日の午後平安神宮に於て平安朝の追儺式を挙行した。此の式は應仁の亂後廢絶せし宮中の行事で、(後略)

として当時の写真が掲載されている。

『歴史写真』大正8年2月號,歴史写真会,大正2-10. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-02-01) 12/39

風俗研究会は京都女子大学教授の江馬務が組織した、歴史風俗の考証と再現を目的とした研究会である。平安神宮の追儺のほか、吉田神社、梨木神社の追儺式も江馬が監修したという。掲句も、おそらく平安神宮か吉田神社のものであろう。

方相氏は古く中国の『周礼』にもあらわれる。熊の皮をかぶり、黄金作りの四つ目の仮面に黒い衣と赤い裳裾をまとい、矛と盾を打ち鳴らし、多くの家来を引き連れて目に見えない疫鬼をはらうとされる。これが葬礼で棺を先導する神と習合し、開路神、検道神などと呼ばれる神となっていく。

日本では平安時代に疫病流行を鎮める厄払いの儀式「大儺の儀」として移入された。『延喜式』などに記述される式次第を読み解くと、時代によって変化はあるがおおむね、桃の木の弓矢と桃の木の杖で四方をはらい、その後侲子(しんし)と呼ばれる子どもたちを引き連れた方相氏が、矛と盾を打ち鳴らし、大声上げて鬼をはらっていく。

平安神宮では「鬼遣ろう、鬼遣ろう」と声を上げているが、三重県の斎宮歴史博物館の再現では「儺遣ろう、儺やろう」としており、これは『蜻蛉日記』や『源氏物語』の描写をもとにしているそうだ。

政事要略』という書物には方相氏と一緒に、目に見えないはずの疫鬼も描かれている。

惟宗允亮 [著]『政事要略』[3],写. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-02-01) 80/153 , 81/153

ところが、本来方相氏は鬼をはらう側だったのに、いつの間にか庭にいる方相氏に向かって矢を射かけ、方相氏を鬼として追い回す儀式に変化したという。目に見えない鬼ではなく、目の前の方相氏が、はらうべき厄災の役割を担わされたようである。

この変化は詳しくはわからないが9世紀ごろだったといわれ、「大儺儀」から「追儺」へ名称が変更した時期も同じといわれる。

応永二九年(1422)ごろ、公家のトップで一流の古典学者でもあった(いち)(じょう)(かね)()が著した『公事根源』という有職故実書は、「追儺といふは、年中の疫気をはらふ心也、鬼といふは、方相氏の事也」と書いてしまっている。

一条兼良の時代にはすでに追儺式は挙行されなくなっており、しかも鬼に矢を打つどころか、豆打ちに変わりつつあった。伏見宮(ふしみみや)(さだ)(ふさ)の日記『看聞(かんもん)日記』応永三十二年(1425)正月八日条に、近年広まった鬼に豆を打つことに先例があるのか尋ねたが不明だったとある。

また『()(うん)(にっ)件録(けんろく)』文安四年(1477)十二月二十二日掾には「鬼は外福は内」を四回唱えて豆を打つという作法が見える。

室町時代の辞書『壒嚢鈔(あいのうしょう)』巻一には、古記の伝承として、宇多天皇のころ鞍馬山近くの深泥ヶ(みどろが)

(いけ)に棲む(らん)()(そう)(しゅ)という二頭の鬼が都に乱入しようとしたところ、鞍馬寺の僧に毘沙門天の示現があり、大豆を煎って鬼の目を打てば鬼は退散する、また鯉を串焼きにして門口に指せば「(きく)(はな)」という人を食う鬼も退散するといわれ、言うとおりにすると無事だったという。

江戸時代に刊行された名所図会には、深泥池の東北の隅に「豆塚」があると記す。この豆塚は、かつて疫病が流行したとき貴船神社の神を勧請して神輿をかつぎ、煎り豆を桝に盛って四方にまいた、その豆と桝を埋めた塚であると伝えている。

民俗学の辞典では豆打ちについて、もともと鬼を饗応するための豆が、厄除けの意味合いで変化したのではないかとの説を紹介している。(西角井正慶編『年中行事辞典』東京堂)

貴船神社の由来を語る『貴船の本地』という物語では、興味深い豆打ちの由来を伝える。鬼の国の姫と恋に落ちた中将(貴船神の前身)が、鞍馬寺毘沙門の加護を受けてさまざまな障壁の末に娘(正確には鬼の姫が転生した娘)と結ばれ、妨げようとした鬼の大王を豆で撃退したことが節分の由来だというのだ。豆は「魔滅」であり、正月に餅を食べたり、端午の節供でちまきを食べるのも鬼の体を食うという意味で鬼除けだという。

『貴船の本地』は室町時代末に成立した物語で、その背景に貴船社家の「舌氏」の存在が指摘されている。この舌氏は、別の伝承では貴船明神が天上から黄船にのって降臨したときに従ってきた牛鬼の子孫で、天上のことを話したため舌を八つに裂かれてしまったのだと伝わる。貴船社と鞍馬寺は京の東北、鬼門にあたり、ともに厄除け、福神としてあつく信仰されていたから、豆打ちという新しい行事の由来ともむすびつきやかったのだろう。

とにかく豆を打って鬼をはらう行為が定着したのは室町時代で、全国的には江戸時代に広まった。江戸時代の諸大名で九鬼家だけが鬼の名を冠するため「鬼は内、福は内」と唱えたという話もよく知られている。

鬼をはらうか、もてなすか。鬼の形象や歴史的な位置づけを考えさせる節目の行事を迎え、サボりがちだった本連載も筆を擱きたい。

なやらふや大津絵の鬼目に浮かべ 杉本零

◎参考文献
高浜虚子選『ホトトギス雑詠選集 冬の部』朝日文庫、1987
榎村寛之「『儺の祭』についての基礎的考察」『文化史論叢』上、1987
三宅和朗「日本古代の大儺儀の変質とその背景」『史学』62、1992
三浦俊介『神話文学の展開―貴船神話研究序説』思文閣出版、2019


【執筆者プロフィール】
久留島元(くるしま・はじめ)
1985年兵庫県生まれ。同志社大学大学院博士後期課程修了、博士(国文学)。元「船団」所属。「麒麟」編集長。第4回俳句甲子園松山市長賞(2001年)、第7回鬼貫青春俳句大賞(2010年)を受賞。共著に『関西俳句なう』『船団の俳句』『坪内稔典百句』『新興俳句アンソロジー』など。関西現代俳句協会青年部部長。京都精華大学 国際文化学部 人文学科 特別任用講師。


【オバケ博士・久留島元の「オバケハイク」】
【第1回】龍灯
【第2回】桂男
【第3回】雪女
【第4回】野槌
【第5回】舟幽霊
【最終回】方相氏


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 「パリ子育て俳句さんぽ」【3月26日配信分】
  2. 神保町に銀漢亭があったころ【第123回】大住光汪
  3. 【連載】漢字という親を棄てられない私たち/井上泰至【第5回】
  4. 「パリ子育て俳句さんぽ」【11月6日配信分】
  5. 趣味と写真と、ときどき俳句と【#08】書きものとガムラン
  6. 【結社推薦句】コンゲツノハイク【2021年9月分】
  7. 【読者参加型】コンゲツノハイクを読む【2023年5 月分】
  8. 【巻頭言】地球を損なわずに歩く――〈3.11〉以後の俳句をめぐる…

おすすめ記事

  1. 【連載】歳時記のトリセツ(3)/鈴木牛後さん
  2. 【冬の季語】掘炬燵
  3. 【秋の季語】林檎
  4. 神保町に銀漢亭があったころ【第24回】近恵
  5. 【#40】「山口誓子「汽罐車」連作の学術研究とモンタージュ映画」の続き
  6. ガンダムの並ぶ夜業の机かな 矢野玲奈【季語=夜業(秋)】
  7. 神保町に銀漢亭があったころ【第94回】檜山哲彦
  8. 【秋の季語】萩/萩の花 白萩 紅萩 小萩 山萩 野萩 こぼれ萩 乱れ萩 括り萩 萩日和
  9. 海市あり別れて匂ふ男あり 秦夕美【季語=海市(春)】
  10. 朝貌や惚れた女も二三日 夏目漱石【季語=朝貌(秋)】

Pickup記事

  1. 夏場所の終はるころ家建つらしい 堀下翔【季語=夏場所(夏)】
  2. 神保町に銀漢亭があったころ【第88回】潮田幸司
  3. 行く涼し谷の向うの人も行く   原石鼎【季語=涼し(夏)】
  4. マフラーを巻いてやる少し絞めてやる 柴田佐知子【季語=マフラー(冬)】
  5. 此木戸や錠のさされて冬の月 其角【季語=冬の月(冬)】
  6. サフランもつて迅い太子についてゆく 飯島晴子【季語=サフランの花(秋)】
  7. 自愛の卓ポテトチップは冬のうろこ 鈴木明【季語=冬(冬)】
  8. 【新連載】久留島元のオバケハイク【第1回】「龍灯」
  9. 【書評】柏柳明子 第2句集『柔き棘』(紅書房、2020年)
  10. 秋淋し人の声音のサキソホン 杉本零【季語=秋淋し(秋)】
PAGE TOP