【読者参加型】
コンゲツノハイクを読む
【2021年8月分】
ご好評いただいている「コンゲツノハイク」は毎月、各誌から選りすぐりの「今月の推薦句」を(ほぼ)リアルタイムで掲出しています。しかし、句を並べるだけではもったいない!ということで、今月より一句鑑賞の募集をはじめてみました。まだ誰にも知れていない名句を発掘してみませんか? どなたでも応募可能できますので、お気軽にご参加ください。今回は5名の方にご投稿いただきました。ありがとうございます!
転職か我慢か棒立ちのシャワー
柏倉健介
「鷹」2021年8月号より
仕事で嫌なことがあったのだろう。洗い流そうとシャワーを浴びるも、いつしか頭の中は嫌な記憶と将来への不安で一杯になっている。今の仕事は楽しくないし、でも環境を変えるのは怖いし、だけどこれ以上我慢するのは嫌だし、とはいえ転職すれば事態が好転するとは限らないし……。考えれば考えるほど、体はうまく動かなくなる。ふと気が付くと、シャワーの中で棒立ちになっている。「転職か我慢か」の二択に縛られているのが切ない。「働かない」という選択は、端から許されていないのだろうか。(西生ゆかり/「街」)
コップに焼酎かならずや明日は来る
小澤實
「澤」2021年7月号より
現下多くの店が休業している中で、居酒屋を栖としていた同輩達はどうしているだろう。家飲みには直ぐ飽き、Zoom飲み会などもしっくりこない。そう我々は居酒屋にアルコールのみを求めていた訳ではない。安くて旨い肴、亭主とのちょっとした会話、カウンターの隣にたまたま座った人との触れ合い等を含めたトータルな「心地よさ」を求めていたのだ。この「居酒屋文化」が廃れてしまうことは、日本文化全体の凋落に繋がる。
さて掲句。家飲みで焼酎をコップで呷りつつ、再び文化的生活を享受できる日が来ることを只管祈っている。正に居酒屋難民達の魂の叫びである。(種谷良二/「櫟」)
あるだけの明るさの中麦を刈る
阿部風々子
「滝」2021年7月号より
初夏の日差しの明るさ、一面に広がる麦畑を渡る風の明るさ、風にキラキラと金色に輝く麦の穂の明るさ、収穫に励む人々の表情や声の明るさ、何もかもが明るい、という光景だ。いや、はたしてそうだろうか。「あるだけの」という語が引っかかる。太宰治『右大臣実朝』に「アカルサハ、滅ビノ姿デアラウカ」という一節がある。コロナ禍においては誰もが何らかの困難や幾ばくかの不安を抱え、なんとかして明るいものを見つけて明るい気持ちになりたいと、明るさの希求は常より強い。「あるだけの明るさ」が切に求められるが、そこには避けられぬ滅亡が仄透けて見えるように思われる。( 大河里歩)
遠足のうぐひす廊下鳴きどほし
瀬戸紀恵
「銀漢」2021年8月号より
歩くとキュッキュッと音が鳴る鶯張りの廊下。城や寺で「うぐひす廊下」に出くわすと、つい楽しくなって余計に音を鳴らしてしまう。子どもであれば尚の事。その上、「遠足」である。浮足立って無邪気に、時にふざけ合いながら「うぐひす廊下」を鳴らす子どもたち。遠足の列はなかなか途切れず、鶯の大合唱である。下五「鳴りどほし」はありのままを詠んでいるが、呆れながらも微笑ましく遠足の様子を見つめている視線を感じる。「鳴りどほし」の「うぐひす廊下」ならば、子どもたちと一緒になっていつもよりたくさん鳴らすことも出来そうだ。(笠原小百合/「田」)
金管の束なす音色新樹光
日野久子
「南風」2021年8月号より
新樹光に照らされるさまざまな金管楽器の音色が「束なす」という感覚的表現で力強く聞こえてくるよう。「新樹光」によってその音色のきらめきや、いきいきとした息遣いが感じられる。(小谷由果/「蒼海」)
姿見を運び入れけり春障子
蘭定かず子
「火星」2021年7月号より
「春障子」があるのだから和風の民家なのだが、「姿見」はもともとアンシャンレジーム期のフランスで創られたものなので、どこかしらミスマッチ感がある。もちろん春の行楽シーズン、ちょっと特別感のある服やアクセサリーを身につけて外出する機会もあるから、この「姿見」はもっぱら実用のためのものだろう。春障子をかいくぐったやわらかな光が、鏡まで届き、それが自身の姿を映し出す。どこかしら、自分自身を見つめ、自身に変化をもたらそうとする「姿見」という小道具がやはり絶妙なのだ。(堀切克洋/「銀漢」)
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