【書評】渡辺花穂 第一句集『夏衣』(北辰社、2020年)

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思い切りよく、繊細に――渡辺花穂 第一句集『夏衣』(北辰社、2020年)

堀切克洋(「銀漢」同人)

俳人には、それぞれに「普段着のような言葉」がある。その人にとって、縁の深いことばと言い換えてみてもよい。

  芽吹き初むこの木なんの木気になる木

言うまでもなく、「この木なんの木気になる木」は、日立のコマーシャルで長年親しまれてきた歌の歌詞である。ところが句集末尾の略歴に、「昭和四十二年 日立製作所入社」とあるのを見つけると、この作者にとって、掲句が単なる遊びではないことがわかる。いや、作った時点では「遊び」のつもりだったかもしれないが、句集としてまとめると、大きな意味をもつ一句となっている。この句に見られるように、この作家の言葉の息遣いには、心地いい「思い切りのよさ」がある。

 涅槃図の嘆きの中に飛びこめり
 無限大の意気もて出づる双葉かな
 ふらここや青春が漕ぐ思ひ切り
 雷鳥よ啼け氷河期のやうに飛べ

とまあ、こんな句が冒頭(第一章「雷鳥よ」)を見ただけでも並んでいる。俳句の道に足を踏み入れたのは「平成十八年」とあるから、60代を過ぎての入門であるが、生来の「思い切りのよさ」は、俳句向きの性格だろう。それが、収録された10年余りの句の「幅」につながっている。

収録句は、故郷や父母を偲んだ句や、子育てや家庭という「日常」を扱った句群と、歴史に材をとった句など、旅吟を中心とした「非日常」を扱った句群のふたつに大別される。日常詠のなかで特徴的なのは、以下のような句だ。

 マヨネーズのさいごの絞り鵙高音
 新海苔に母のたよりを炙り出す
 どことなく野焼の町のほの甘し
 春満月まだ膨れむとするけはひ★
 寒菊のひかり零さぬやうに剪る★
 腹案をあたためてゐる紙懐炉★

新海苔や紙懐炉の句は、ウィットに富んでいる。眼前では、ただ海苔を炙っているだけであり、懐炉で腹をあたためているだけなのだが、そこから少ない手数で一気に「俳」に傾ける要領のよさがある。鵙、野焼、春満月の句は、いずれも感覚的な句であるが、たとえばマヨネーズに力を込めて絞り切った手の感覚と、鵙の甲高い鳴き声がお互いを高めあっている。

野焼の句は、視覚から嗅覚へ、春満月の句は、視覚から触感へとゆるやかに橋渡しされるところがいい。寒菊の句は、当然のことながら、秋櫻子の〈冬菊のおのがひかりをまとふのみ〉の本歌取りであるが、単なる観念の世界にとどまらずに、「剪る」ことのリアリティに再び舵を切ったところが魅力だ。

このような「思い切りのよさ」が、形式のレベルで表れているように思えるのは、上五の字余り句の多さである。たとえば初期の第1章では、28句中8句、第2章では36句中12句と、前半にとくに多い。もちろん、俳句では「上五の字余りは許容される」という意見もあるので、作者はそれに従ってきたまでなのかもしれない。しかし、それにしても多い。あえて残したのか、それとも削ってこの数なのかはわからないが、これもまた作者の「思い切りのよさ」と無関係ではないのだろう。

 みすゞの里童話のやうに小鳥来る
 莫高窟の仏と同じ黄沙浴ぶ
 半跏思惟像何かひらめきさうな秋
 秩父盆地のまつただ中に大根干す

比較的初期の句から引いたが、「みすずの里」「莫高窟」「半跏思惟像」「秩父盆地」という言葉は、句で示される空間の場所性を限定しており、結果として、季語は知的に取り図られている。言い換えれば、前半の主題に対して、後半の措辞は無理のない「変奏=ヴァリエーション」になっている。このような機知の句の延長線上に、さきほどの「寒菊」や「懐炉」の句が生まれたのだろうが、その感覚が細やかになっていくのが、句集を読み通すとよくわかる。

 路傍の石どつかと初日浴びてをり
 ジグソーパズルの一片拾ふ初箒
 茅一本はみ出す茅の輪くぐりけり
 思惟仏のやうに頬杖夕ざくら
 野外学習蜂に出合うてより乱る

これらの句では、同じ上五の字余り句ながらも、後半でほどよい驚きが、いわば「転調」が感じられる。というよりも、前半/後半というロジカルな構図が少し解消されて、ひとつの景のなかの小さなものが、読み手に無理なく伝わるようになっている。素材もどこか「軽み」が感じられ、前半の「力み」がだんだんと解けていくようなところが印象深い。

そのうえで、私がこの作者の強みであると思ったのは、次のような句である。

 女郎花胸に抱く間もこぼれけり
 福寿草咲けり隣へおすそ分け
 東京駅燃え立たすかに春夕焼
 鬼灯揉む頭の凝りを解きたくて
 余震なほ馬鹿貝しかと口閉ぢよ
 上げてより雪見障子となりにけり★
 灸花こんなに咲きて熱からう
 噴水をひと巡りして夫を待つ
 秋七草仏花の丈に剪り揃へ
 旅に出て数へ日ふたつ減らしけり★

これらの句には、単に「思い切りのよさ」だけでは語り尽くせないよさがある。たとえば「東京駅」の句は、単なる見立てを超えて、(戦争や地震によって)壊滅的な被害を受ける可能性をイメージさせるのではないか。句集のなかに社会詠は見られないが、しかしこの作者の細やかなまなざしの奥底には、どこか慈愛に満ちた哀れみが透けて見えてくる。「余震」の句も、単なる言葉遊びを超えて、どこかに現代社会に対する不安までが感じられる。「数へ日」の句も、表面上の面白さを超えて、その二日間が作者にとっては大切な、特別な二日間であったこともまた思われる。

このうち「噴水」と「秋七草」の二句は、私が執筆させていただいている「天穹」のなかでも取り上げさせていただいたこともあり、ことさら印象に残っている句である。

 噴水をひと巡りして夫を待つ     渡辺花穂
 妻が集合時間よりも先に到着してしまうのか。はたまた、夫が遅れてくるのか。いずれにしても待ち合わせのズレは、夫婦間の微妙なズレを暗示する。大きなズレではない。小さなズレあってこその夫婦円満。下五に置かれた「夫を待つ」という言葉からは、夫婦の秩序を保っているのは自分なのだ、という自負もうかがえる。(「天穹」2019年11月号)

 秋七草仏花の丈に切り揃へ       渡辺花穂
 春の七種と比べると、萩や芒といった秋の七草は丈が長い。掲句は「仏花の丈に切り」とまでしか言っていないが、仏花とともに備えたのであろう。故人とともに秋を楽しもうとする作者の慕情の念が伝わってくる。(「天穹」2020年1月号)

ここに引いた二句は、どちらも季語を正面から詠みながら、作者の細やかな感性が生きた作品だと思う。全体的に見れば、初期の句から一貫しているのは、この作者の関心が眼前の「もの」を客観的に詠むことよりも、(多くの場合、自分が関与した)「こと」をユーモアをもって描くことにある、ということだ。だからこそ「灸花」のような植物を詠んだときにも「熱からう」という内面の呟きに戻ってくるのだろうし、生活のなかの一人称的な句のほうが、生き生きと感じられるのであろう。

冒頭で書いたように、「思い切りのよさ」は、俳句で是非に必要な力である。しかしそこに、普通の人々が目にも止めないような〈小さなもの〉に気づき、それを愛おしむ眼差しもまた、必要な力である。話を戻せば、「この木なんの木気になる木」というフレーズに、この作者が取り合わせた季語は「芽吹き」であったのだ。そう思って読み返すと、この一冊を象徴する一句は、一見すると言葉遊びにすぎないような序盤の〈芽吹き初むこの木なんの木気になる木〉であるようにも思われてくる。

* 渡辺花穂『夏衣』北辰社、2020年3月3日初版(天穹叢書17)定価2000円+税
* ★印は、自選十二句に含まれている句。

【執筆者プロフィール】
堀切克洋(ほりきり・かつひろ)
1983年生まれ。「銀漢」同人。第一句集『尺蠖の道』にて、第42回俳人協会新人賞。第21回山本健吉評論賞。

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