神保町に銀漢亭があったころ【第57回】卓田謙一

超結社・呑兵衛俳人の聖地

卓田謙一(「りいの」編集長)

酒の好きな俳人と、俳人となった酒好きが集う店……。必然的に呑兵衛の俳人が客のほとんどを占めることになる。店のあちこちで俳論が戦わされ、何の前触れもなくいきなり句会が始まる。こんな店で飲むことはもう経験できないだろう。

僕が初めて瀟洒な緑色の「銀漢亭」の看板の下をくぐったのは、十数年前だっただろうか。たぶん職場句会で一緒だった「古志」の藤英樹さんに連れていってもらったと思うが、もう記憶が定かではない。

まず感心したのは、注文した酒や肴が出されるたびに金を入れた小さな籠から代金を持っていくシステムだ。西部劇のカウンターのように一杯ごとに支払う立ち飲み屋はあるが、銀漢亭の場合は釣りが籠に残る。ここがミソである。残る金が少なくなると、また千円札を一、二枚足す。そのうち何杯飲んだか分からなくなるのだ。

最初から居心地がよかったのは、主の伊藤伊那男さんの懐の深い人柄ゆえである。自分が所属する結社以外にあまり知人がいなかった僕に、いろいろな人を紹介してくれた。まずは伝説の「湯島句会」に参加させてもらった。多い時には参加者が50人ほどになる句会で、超結社ならではの勉強をさせてもらった。対象の切り取り方や独特の表現、リズムの多様さなどそれまでに思いもしなかった多くの句に出会い、句作の幅を広げてもらった。参加人数が多くて店の外まであふれたり、テーブルが足りなくて壁を下敷きにして選句をしたり、面白い句会だったし、名の知れた俳人の講評を受けたことは財産になった。

湯島句会が発展して「銀漢」を創刊したときは、贈呈先名簿などを提供して少しお役に立った気もしている。

湯島句会が終わった後は、毎月第二火曜日に開く超結社の「火の会」のメンバーに加えてもらった。参加者は各結社の主宰や幹部クラスの多士済々の顔ぶれ。あまり点は入らないが、体幹を鍛えてもらっていると思っている。

銀漢亭の閉店は寂しいが、その存在は多くの俳人の心に残り続けるはずだ。

【執筆者プロフィール】
卓田謙一(たくた・けんいち)
1952年3月、岩手県宮古市生まれ。「りいの」編集長。俳人協会会員。


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