【第3回】
鷲谷七菜子の父・楳茂都陸平の跡を継いだ六代目片岡愛之助
(2024年11月21日立川ステージガーデン「立川立飛歌舞伎」初日)
先月11月21日から24日までの4日間、立川ステージガーデンで「立川立飛歌舞伎」が開催された。この立川立飛歌舞伎は今年で2年目。立飛グループの創立100周年記念事業として2023年に始まった。
今年初めてこの公演に出演した六代目片岡愛之助は、1972年大阪府堺市生まれの上方の役者であり、もともとは歌舞伎の家ではなく一般家庭の出身。松竹芸能の子役オーディションに合格し、現代劇や歌舞伎の舞台に出演していたところ、十三代目片岡仁左衛門に見出されて部屋子となり、1993年に仁左衛門の次男である二代目片岡秀太郎の養子となったのを機に、六代目片岡愛之助を襲名した。のちの人気ぶりは多くの人の知るところであり、一般家庭出身の歌舞伎役者としては五代目坂東玉三郎に次ぐ近年異例の出世である。
片岡愛之助は、歌舞伎役者であると同時に、上方舞の楳茂都流の四世家元・三代目楳茂都扇性(うめもとせんしょう)でもある。
この三代目楳茂都扇性の先代にあたる三世家元・楳茂都陸平(本名 鷲谷陸平・1897年〜1985年)は、俳人・鷲谷七菜子(1923年〜2018年)の父である。
鷲谷七菜子は、楳茂都陸平と元宝塚歌劇団娘役の吉野雪子の長女として大阪市に生まれた。生後4か月で祖父の二代目楳茂都扇性(本名 鷲谷路三郎・1865年〜1928年)に引き取られ、祖父母に育てられた。二代目楳茂都扇性は、上方歌舞伎界や花柳界の舞踊の師匠を務めた。『鷲谷七菜子作品集』(本阿弥書店)収録の「鷲谷七菜子自筆年譜」に次の記載がある。
大正十二年(一九二三) 〇歳
(中略)物ごころがついたとき、家に稽古にくる松竹の俳優たちや花街の人たちの美しさ、三味線の音などに囲まれていた。
七菜子は4歳頃から祖父に踊りを習っていたが、間もなく5歳の時に祖父が亡くなり、以降七菜子は祖母と暮らした。ときどき祖母が稽古をしたが、踊りの世界からは離れて暮らした。その祖母は七菜子の父にとっては義理の母で、この祖母と父母の折り合いが悪く、七菜子はその狭間で長く苦しむことになる。
昭和三年(一九二八) 五歳
(中略)父の義理の母であった祖母は、「扇性のあとはこの子に継がす」と父を無視して私に白木の位牌を持たせたことを覚えている。
昭和四年(一九二九) 六歳
(中略)当然のことながら結局は父が三代目家元を継いだが、「扇性」の名は継がなかった。それは祖母との確執のせいばかりでなく、芸術家は一代限りのもの、という父の信念から出ていたことを後年知った。
そんな中で七菜子は、高女時代の教師と祖父の影響から、次第に俳句に心が向いていった。
昭和十年(一九三五) 十二歳
大阪府立夕陽丘高女に入学、(中略)三年の頃の国語の教師が俳句に関心をもった人で、ときどきつくっては見てもらったりした。それに生前俳諧をたしなんでいた祖父の影響もあり、次第に俳句に関心が向いていった。
昭和十七年(一九四二) 十九歳
前年末太平洋戦争はじまる。そんな中で句作に対する熱がたかまり、一、二年前水原秋桜子の選句欄を持つ婦人雑誌に投句して佳作などに選ばれたことに力を得、かねて魅力を感じていた「馬酔木」に投句をはじめる。
また、俳句に専念しながらも、楳茂都流を受け継ぎたいと父に訴え続けた。
昭和二十三年(一九四八) 二十五歳
やっと一息ついて俳句にも専念できるようになったとき、秋桜子選で、はじめて選後評に取り上げてもらった。うれしくて私はその評のことばを何度繰り返して読んだことだろう。一生俳句をつづけて生きようと思ったのはその時分であった。
私はそのころ、生きるということは神から与えられた生命を、自分にとってはこれより他にないという仕事に燃焼させて一生を終えることだという信念を持っていた。学生時代からのちも、ときどき祖母の眼をぬすんでは父に逢いにいったし、又何通もの手紙ででも、私は父に「どうしても上方舞をやって行きたい。力がなければ私の代で終わるだろうが、それでも流儀を受け継いで死ぬまでやり続けたい」と訴え続けた。父も何とかしてやらせたいと思ったらしいが、祖母との確執、更に父の再婚による妻と私との人間関係を思うと一緒に暮らして芸を徹底的に私に仕込むということはどう考えても無理なことで「時機を待て」といううちに年数が経ち、そのうち戦争によってもはばまれる結果となってしまったのであった。私は遂にあきらめ、その代り、俳句に一生を託することを決心した。
俳句に一生を託すると決心した七菜子は、昭和二十六年に「南風」に投句をはじめる。しかしその年に、自殺未遂を起こす。
昭和二十六年(一九五一) 二十八歳
「馬酔木」に投句しながら「馬酔木」同人山口草堂主宰の「南風」にも投句するようになった。「馬酔木」の大阪支部として発展しはじめていた「南風」の句会にも出て、徹底的に勉強したかった。しかし祖母は「こんな苦しい生活をしていて、俳句で遊んでいられる身分か」と怒り、句会に出ようとしても必死にこれをとめた。(中略)経済的な行きづまり、俳句を思うように勉強できない苦しさ、誰か手をさしのべてくれる人が欲しいと思ったがそれもなく、(中略)何年か考えに考えた末、死を選ぶより他に道がないという結論に達した。多量の睡眠薬を飲み、二尊院の境内の草むらに身を横たえ、今まで見たこともないような美しい星空を仰いだとき、やっと私は救われると思った。が、神仏は私を拒んだのか、ふと気がつくと病院のベッドに横たわっていた。おぞましいこの世を又生きねばならないのか、私はなぜそれほど罰せられなければならないのか、と運命を呪った。
そののち、父と交渉して仕送りをもらい、家の二階を人に貸し、法律事務所に就職して生活のめどができ、1953年には「南風」の句会にはじめて出た。そこで七菜子は草堂を生涯の師とすることを決意する。
昭和二十八年(一九五三) 三十歳
(中略)師草堂の俳句に対する情熱、「生きる証しの俳句、生命の詩」の唱導に深く感動、生涯の師として師事することを決意、今後どんなことがあっても俳句をやめない、この師からは離れない、と心に誓った。
1955年に祖母が亡くなり、1957年には「馬酔木」同人に。また「南風」の編集、発行事務などを手伝いはじめた。1958年には山口草堂に伴われて上京し秋桜子を訪ねた。
そして1963年、第一句集『黄炎』(南風俳句会)を刊行した。その序は、秋桜子が書いている。
鷲谷七菜子さんの句には、私のいう大阪の匂いが昔からあった。東京の女流と比べてもそれは顕著であるし、大阪の他の女流と比べても、なお且つはっきりとしていると思う。(中略)「この陰翳は、どうしても東京のものではなく、大阪特有のものにちがいない」という、その陰翳と匂いとを感じ、それをおもしろく思っているのだ。尤も七菜子さんには、大阪流の芸道の血がながれているから、強いて言えば、青畝・夜半両氏の句よりも、浄瑠璃の匂いが、幾分つよいかも知れない。
『黄炎』に収録されている句の中から、この「大阪流の芸道の血」が感じられる句をいくつか挙げる。
十六夜やちひさくなりし琴の爪
春愁やかなめはづれし舞扇
舞初の扇はさみし帯かたき
祖母よりの鏡台みがく近松忌
離れ住めば父情も淡し夕螢
かがやかに蟻湧き父祖の墓揺るがず
第二句集以降からも数句挙げる。
父情一片冬日きらめく湖の沖
父恋ひの身にしたたりて大銀河
ひぐらしの日の寂寞と父祖の墓
(『銃身』第二句集、1969年)
曼珠沙華すつくと系譜絶ゆるべし
夢に話せば老い父も梅あかり
(『花寂び』第三句集、1977年)
1984年、草堂が重患に陥り、七菜子は草堂の指名により「南風」主宰を継承した。
七菜子の慕った父・楳茂都陸平と師・山口草堂は、偶然にも1985年に立て続けに亡くなった。陸平が2月4日、草堂が3月3日であった。
これに際して七菜子はそれぞれに追悼句を詠んでいる。
父死す 三句
春眠の顔なきがらとなりにけり
春さむし通夜の夜明の仮枕
きさらぎの人に死なれし顔洗ふ
山口草堂先生ご他界 一句
玉梅に魂魄の闇ありにけり
これ以降の句は父亡き後である。
木々の香はまこと父の香夏の雨
蜩やむかしむかしの父の恋
(『天鼓』第五句集、1991年)
家系亡びて三椏の花ざかり
(『一盞』第六句集、1998年)
生誕の家にかむさる茂りかな
青葉して宗家といへるほの幽さ
(『晨鐘』第七句集、2004年)
七菜子は第七句集『晨鐘』を刊行した2004年に、「南風」の主宰を辞任。そして2005年、この『晨鐘』で第39回蛇笏賞を受賞した。
2007年1月1日、鷲谷七菜子は断筆を宣言。以降句を発表することはなかった。
そしてこの2007年、七菜子の父・楳茂都陸平の23回忌の年に、楳茂都流家元の後継者として六代目片岡愛之助が迎えられることとなった。それまで父亡き後は楳茂都流舞踊協会が発足し七菜子の義理の母が会長に就任、その義理の母も亡き後は七菜子が会長を引き受け、父の弟子たちが流派を継続し長く後継者の到来を待ち侘びていた中、もともと上方舞と濃い関係を持つ上方歌舞伎の役者の中でも特に実力のある愛之助に白羽の矢が立った。以後、六代目片岡愛之助は楳茂都流の四世家元・三代目楳茂都扇性として舞踊会にも出演している。
七菜子の祖父の祖父にあたる鷲谷正蔵が、京都で光格天皇の兄・方広寺門跡妙法院宮真仁親王に仕えた際に、御所の大橋の局から雅楽乱舞や今様、風流舞の奥義を伝授され、その子である鷲谷将曹がその奥義を受け継ぎ、大阪の天満に咲く梅に想いを込めて「楳茂都流」と命名、初代楳茂都扇性と名乗り流派を興した。そして初代扇性から三代にわたり上方歌舞伎の振付を行ってきた楳茂都流が、上方歌舞伎の役者に託されることとなった。
2018年3月8日、鷲谷七菜子は95歳の天寿を全うした。鷲谷家の藝は、愛之助をはじめ多くの弟子たちに今も継承されている。
さて、今回「立川立飛歌舞伎」の開催された立川ステージガーデンは、歌舞伎座の収容人数の約2,000席よりも多い、約2,500席の巨大な会場で、歌舞伎専用劇場ではないながらも、両花道や宙乗りの機構も組まれ、大変華やかな舞台であった。
愛之助は、『新版 御所五郎蔵』で立役の御所五郎蔵と女方の後室百合の方の2役を演じ、五郎蔵は「声よし、顔よし、姿よし」の立役で2,500人を魅了し、百合の方では時鳥をなぶり殺しにして薄ら笑う姿に身の毛がよだった。また『玉藻前立飛錦栄』の川村大介義明の押戻は、迫力があって巨大な会場でもとても大きく見え、この会場にふさわしい華があった。
片岡愛之助をテレビなどでしか見たことのない方には、ぜひ歌舞伎役者としての彼の舞台姿を観ていただきたい。目と声と所作が美しく、実際に見たら、きっと魅了されるはず。
<参考文献>
『鷲谷七菜子作品集』(1993年、鷲谷七菜子著、本阿弥書店)
『鷲谷七菜子 自選三百句』(1993年、鷲谷七菜子著、春陽堂書店)
『鷲谷七菜子全句集』(2013年、南風俳句会編、角川書店)
※この記事は2024年11月27日に書かれたものです。片岡愛之助さんのお怪我のご快復を心よりお祈り申し上げます。
(小谷由果)
【執筆者プロフィール】
小谷由果(こたに・ゆか)
1981年埼玉県生まれ。2018年第九回北斗賞準賞、2022年第六回円錐新鋭作品賞白桃賞受賞、同年第三回蒼海賞受賞。「蒼海」所属、俳人協会会員。歌舞伎句会を随時開催。
(Xアカウント)
小谷由果:https://x.com/cotaniyuca
歌舞伎句会:https://x.com/kabukikukai
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