雪で富士か不二にて雪か不尽の雪
上島鬼貫
劇作家/演出家の平田オリザは自身の戯曲『東京ノート』について、過去に以下のように述べている。
この作品を書くのには、たいへんな苦労をした。当初、単純に美術館のロビーに場面を設定したわけだが、書き始めてみると、何をどう書いても不自然な感じが否めない。
「美術館で、こんな話しないよ」という感じがつきまとうのだ。(中略)そこで私は、戯曲を書き始めてから、さらに背景を追加することに決め、「ヨーロッパが戦争状態になっていて、有名な絵画がどんどん日本に避難してきている」という新たな設定を付け加えた。こういった特殊な状況を付け加えることで、かろうじて美術館のロビーで人が会話することの必然性を保つことができるようになり、どうにか作品は完成した。(『演劇入門(講談社現代新書 1422)』(講談社、一九九八年))
注目したいのは、「美術館のロビーで人が会話すること」の必然性が十分に検討された一方で、「ヨーロッパが戦争状態になっていること」の必然性についてはほとんど論じられていない点である。
「美術館のロビーで人が会話をしていること」と「ヨーロッパが戦争状態になっていること」では、蓋然性が高いのはむしろ前者の方であると思うけれども、たしかに、感覚的に「不自然さ」をおぼえるのは「美術館のロビーで人が会話をしていること」である。ヨーロッパが戦争状態になっているという設定の話があったとき、いちいち「いや、それは不自然だ」と突っ込むほうが不自然であろう。
もちろん、これを厳密に論証したければ、美術館は無数にあるがヨーロッパはひとつしかないこと、「美術館のロビーで会話をすること」はその役の人物造形を示す要素となりうるが、「ヨーロッパが戦争状態になること」の因果はすくなくとも『東京ノート』に描かれる人物からは遠く隔たっていることなど、二つの条件の非対称性についても十分検討しなければならない。
しかし、今回こだわりたいのはじつはそこではない。
重要なのは、上記『東京ノート』の例に限らず、もっといえば戯曲の問題に限らず、多く創作物において、小さな違和感は瑕になるが、ドラスティックな作為は作品の前提として受け入れられて、もはや違和感という枠組みからは外れてしまう、ということが少なくないのだろうという点である。
雪で富士か不二にて雪か不尽の雪
翻って、言語遊戯であるとか、奇抜であるとかといわれて現代の俳句的価値観から見てそれほど評価の芳しくない談林俳諧の発句などは、そういうものであると一度受けとめたうえで、改めて見直されるべきではなかろうか。
すなわち、談林における滑稽や言語遊戯などの要素は、句作における小さな工夫ではなく、そもそもの大前提であるのだから、ただ俳句的価値観に則ってそれを瑕として跳ね除けるよりも、一度談林的立場に立って、その談林全盛の時代、同傾向の句が際限なく詠まれていくなかで、卓越した一句とするためにどのような技巧が用いられたのかを注視するほうが、「俳句」を志す我々にとっても学びがあるのではないか、ということである。
さて、掲出句は終生鬼貫と親交の深かった西吟の編による『庵桜』(1686年刊)に、「囉々哩(ららり)」の号で見えたのが最初である。なお、初出の時点では「雪で富士か不尽にて雪か不二の雪」と中七「不尽」、下五「不二」されていたものが、後年鬼貫の撰による『大悟物狂』(1690年刊)では、掲出の中七「不二」、下五「不尽」の形に改められている。
近世以前は現代と異なり、漢字や仮名の表記のプライオリティがそれほど高くなく、それゆえの表記揺れという可能性も考えられなくもない。しかし、ここまで徹底的に「フジ」の二字を入れ替えているこの句の場合、やはり表記に特別の意味があると考えるべきであろう。
そうした表記についての考察では、近世研究の大家である中村幸彦が『庵桜』所収の句を挙げて次のように述べているものが大いに参考になる。
富士、不尽、不二と富士山を三様に書きわけたのが趣向をなす。雪に富む、すなわち雪が多い故に富士というのか、それとも文字のまま不尽というので雪が年中尽きないのか、いずれにせよ二つとない不二の雪景色だという意。(「談林発句鑑賞」(『中村幸彦著述集 第九巻』(中央公論社、一九八二年)所収))
このようにして、漢字のみの違いからその意味を抜き出して展開させていく奇抜な句作のやり方は、いかにも談林風の詠みぶりという感じがする。
本稿では、より新しい作で、鬼貫の撰である『大悟物狂』の方の句を取り上げているから、上記に倣って解釈をすれば、「雪が多く積もってようやく富士らしくなったといおうか、あるいは二つとない不二の山に雪が降ったといおうか、いずれにしろ、雪の尽きない不尽の山である」といったところであろうか。こちらの読み方では、より「雪」の方に視線が向かっており、季感がはっきりしてきたといえよう。
ここまで読んだとして、やはり現代的な感性からすれば詩情の乏しい句であるとの批判は尽きないであろう。それでも、漢字の表記を十分に活用して一句の意味内容に広がりを持たせた点、それでいて、一句全体は同語反復的に、どこか虚をもって軽妙に仕立てられている点などは、我々が俳句表現の新たな可能性を模索する場合に、顧みるべき価値のあるものである。
なお、この句は鬼貫の没後約三十年、『大悟物狂』からはおよそ八十年降った1769年、太祇の校訂による『鬼貫句選』において、「雪で富士歟富士にて雪かふじの雪」と大きく表記を変えている。この頃にはすでに談林が衰退して久しく、あるいは「俳句」の起こりを待つまでもなく、一句から言語遊戯的側面が削ぎ落とされてしまっていたのかもしれない。
(加藤柊介)
【執筆者プロフィール】
加藤柊介(かとう・しゅうすけ)
1999年生まれ。汀俳句会所属。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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