窖からころげ出るあぢさゐはなみだは 小川双々子【季語=あぢさゐ(夏)】


窖からころげ出るあぢさゐはなみだは
小川双々子

 これをかきはじめた日、知らない人に「月が綺麗なので、みてください」と声をかけられた、というかおしえてもらったということがありました。窓のほうを向いて、大きく澄んだ月をみて、水曜日には台風などが来ると知って、いよいよ夏なのだなあと指で手帳をたどりました。
 家に帰って、部屋の窓をぱーっと開けたら、部屋の真上に、この部屋を見下ろす、その真ん中に月があり、目が合った。ありえないことで、でも、目が合った感覚があって、aikoさん、月と目が合うってこういうことだったのですね、となったわけです(『相思相愛』の歌詞に出てくるのです)。うわー、そうだったのね。ちがうかもだけれど、そうだったのね。
 六月を過ぎても、きょうも昨日も明日も、月がはっきりとみえたらよいのですが。

☆。.:*・゜

 いい句集やいい俳句をよんだあとに、そのすばらしさの前にあって、わたしにできることは何も無い。断じて無いけれど(なぜならそれらの俳句はずっと前の時間でありながら、ずっとここから先の遠くに居るから)、あーもう、この句が、ほんとうに、いいので……と、世に挙げることはできる。そう信じて綴っておりますよ、の三回目☆。.:*・゜

 掲句は小川双々子句集『囁囁記』より。

 花冷えのある古書店で、黒地に白の、何層にも重なった重厚なレースがあしらわれたゴスロリのワンピースのような柄が目にはいって、手にとってみましょうね、となりましたこの本は、囁、囁、記……。その字までも繊細に編み込まれたレースのようで、ますますロリィタが思われるなあとなりましたものの、よくみれば、結果として外箱のそれは水辺にたゆたう水草もよう(?)だったのですが、装丁から、書名から、小川双々子という不思議で魅力的なお名前から、なんだかとっておきによい予感がして、句集とともに帰宅しました。もう一年ぐらい前のこと……。
 はずかしながら、わたしが双々子のことを知ったのはこの日がはじめてでした。

 逸れますが、ロリィタのことをもうすこしかかせてくださいませ。
 ロリィタはかわいいけれど、鉄壁。鉄壁で、ゆるぎないのです。リボンやフリルに、レースに、薔薇のボタンに、パニエにドロワーズに……全身に大切な秘密をちりばめて、それに包まれながら、自分だけで守ってきた気品をぜんぶみせないように纏う。その姿は誰にも脅かされず、着ている者以外は誰もふれられず、自分がみせたい装いで何処にでも立ってゆける、貴さ。
 『囁囁記』の外箱の模様はレースでなかったし、そうでなくてもこの句集にフリルもリボンもないけれど、でも、これは、なんだかやはりロリィタに、似ている…………と恐れ多いながら、読後、まず思い至ったのでした。うれしいなー。句集で纏えることを、考えたことがなかったから。

☆。.:*・゜
 
 ようやく掲句のこと。というより、掲句からうかべたことになるでしょうか、息をのみながら。

 いま、「誰か」にくるしみや、かなしみや、何にも言い表せないどうしようもなさがあって、大きく、深く、くり抜かれたそこに、窖にうずくまっていて、暗い。うまれる前、ずっと暗いお腹のなかに居て、きっとその暗さに慣れたはずなのに、もう目も耳も手も足も生えてしまった今日では、やはり、耐え切れないのかなあ。
 でも此処を出られるか、出たくないのか、出られないのか、いまの「誰か」自身にもわからない。だから「誰か」は自分の、最後のさいごの、最下層のところにうすく残る元気を、なみだを送ることにつかった。なみだを雨と思ってくれた紫陽花が、まあるく、ぼふぼふと咲きこぼれてゆく。
 へ……なんだか綺麗だし…………いいかも、あ、じさい、園?窖から咲くなんてきいたことがないけれど、珍妙だーって話題になって、観光名所にでも、なるかしらん。
 あふれすぎたせいで、どうしてこんなにもなのに、ちゃちな、宝石のにせものみたいに、なみだも花びらも軽妙にころがって、拍子抜けしてしまった。しかし、これでばれなきゃいいな。この身からおかしな窖ができて、そこに留まってしまったことも、此処から出たくないかもしれないことも、もうおそらく出られそうにないことも。「誰か」はいつかくるその日も、自分の骨をとらせない。ぼふんぼふんと咲く紫陽花は、雨のもとにも陽のもとにも晒される。しずかでずっと毅然な花。おそろしい頭蓋骨の代わりに拾わせるのはまたとない紫の大きな紫陽花がいい。
 たべたら、毒になるけどね☆。.:*・゜
 
 でもいずれね、いろんな人に、いろんなふうにわかられてしまうのだろうと思います。ばれるのではなく、わかられる。
 ないていたのも、咲きたかったのも、わかられます。ちいさな世界でがんばっていたのね、とか、辛かっただろうねとか、あたまがいかれていたのだとか、可哀想にね、とかのように。それは多方面のやさしさでもありますが、そのやさしさから、句にかかれた「誰か」(あるいは何か)の間には長いながい距離があるのです。近づけない。どうやっても、窖には一人しかはいれない。

 わたしがこうしてじゃこじゃこかいているのもまたそれで、心底の不甲斐なさ……ころげ出たものをうまく拾えない。

☆。.:*・゜

 小川双々子は、大正十一年に岐阜県にうまれ、愛知県は一宮に暮らした俳人。先の大戦の空襲や病を経て、クリスチャンになっています。そのためか、作品にも聖書とのつながりが深い言葉が多く登場しています。
 素直に……掲句の「窖」もそうかもしれません。カタコンペのような墓所(そもそも墓自体が「窖」でもありますね)、隠れキリシタンたちの地下での潜伏……そういうものも想像させます。こちらの背景をふまえると、句がまた異なるものにみえてきます。
 窖へ、葬ることも、生きるために潜むことも祈りで、祈りのためで、祈りのたびにうまれ、失われたことへのなみだが、ころげ出るほど脆く強いなみだが、七変化の花に変わってゆく。そんなふうに。いえ、いくら変わろうとも、うつくしい、無数の祈りを忘失することなかれ、と……。

  訪墓のいま 私 鶏頭ほどに 小川双々子

☆。.:*・゜

 わたしが持っているこの『囁囁記』、前の持ち主の方が大切にされていたようで、版元による句集の注文葉書も、双々子が「大いなる先輩」と仰ぐ鈴木六林男執筆の別冊・解題「エデンの東—小川双々子句集『囁囁記』にかかわる男たち」も、端正に切り抜かれたちいさなちいさな『囁囁記』の新聞の宣伝広告も当時のまま、きちんと入っていました。このさまをみて、あとがきと解題を続けて読んだら、何とも言えず、胸がいっぱいになってしまいました。

 今年で双々子が亡くなってから二十年が経ちます。

  旧火口枯火口その底にことば 小川双々子

☆。.:*・゜

 つたなさこの上ないものですが、あっ、と思う俳句に毎週あえることの未知のあかるさを経験させてもらっている……と思います。

 いいときはもちろん、そうじゃないときも何か言葉や俳句を目で追えたら、ちょっと大丈夫になれる人が居たらいいなー、そうであれーっと願いながら、できるだけ、かけるだけのことをお届けするつもりです。もうすこしお付き合いくださいね……♪付き合わせる、 という強気が……。

おおにしなお


【執筆者プロフィール】
おおにしなお
平成十年、東京都生まれ。俳句をかきます。



橋本直さんが〈のこるたなごころ白桃一つ置く〉(小川双々子)について書かれている書はこちら。

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