
いつしんに飯くふ飯をくふはさびし
片山桃史
戦時下を生きた作者の無季俳句。戦時という特殊な状況を背景に持ちながらも、掲句にある感覚は決してその時代だけのものではない。食事という極めて日常的な行為を通して、時代を越えて現在を生きる我々の感覚にも真っ直ぐ通じると感じた。
常々思うのは、食事をするときの人間の身体は、食事に拘束されているのではないかということだ。手や口、体幹など表現や発散の手段として使えそうなものは封じられて、思考のみがぐるぐると巡る。掲句のように、一人黙々と食べ物を飲み込んでいるうちに、どうしようもない虚しさに陥る経験は珍しいことではないように思う。そしてその感覚は、行為そのものへの苦しさを再認識させてくる強さを持ち合わせている。
「いつしんに」という言葉も、考察するうえで興味深い。一心不乱に何かへ打ち込むことは、普通ならば充実や熱中を思わせる。しかしここで一心に行われているのは、「飯くふ」という、ごく日常的で、不可避的な行為である。一心に食べるということは、一心に命を繋ぐことでもあるのかもしれない。にもかかわらず、その行為を見つめた上での結論は「さびし」である。身体そのものへの倦怠がうっすらと立ち上る。
和歌の世界では、長らく、食事や睡眠、排泄など生きていくために身体が行う行為は「美しくないもの」と捉えられて描かれない時代があった。食事の元を辿れば自然界からの略奪行為であるし、肉食には屠殺が伴う。人間が苦しまずに生き続けるための義務でもあり、理性的でない振る舞いを本能のままにしているような負の側面があることは否めない。我々は食事をさせられているのである。
一方で、現代詩歌では楽しげな食事を題材にした作品も多数ある。食事の娯楽としての側面やコミュニケーションツールとしての側面がよりフォーカスされるようになったからということと、詩歌が大衆化して、そもそもの生きるための行為に詩情を見出し始めたことなどが主な要因だろうか。食事に関する楽しみとは主に環境に起因するものであろうから、「食事」というよりは「食卓」が主題とも考えられる。
受動的な食事をさせられている掲句では「飯」という大掴みな把握をすることで、眼前の食物への興味のなさ、精神的な苦しさ、共感性が際立っている。「へろへろとワンタンすするクリスマス/秋元不死男」は諦観の気配もあるが、徐々に「すする」という行為に立ち返っていく点などから似た気分が感じられる。ただし、こちらは食物と外界をくっきり描いている部分は対称的で、主体そのものに感情移入できそうな作品である。
食物を詠むなら美味しそうに、という、方々で耳にする目標は個人的にも目指すべき境地だと思うが、いつでも食事を楽しめるわけではない。食べることそのものが億劫なとき、あるいは一人で黙々と食べながら、自分の身体だけが生存のための仕事を続けているように感じ、それを放棄したくなるときもある。そういうときには、食事という行為自体を詠むことが感覚に寄り添うのかもしれない。
(野城知里)
【執筆者プロフィール】
野城知里(のしろ・ちさと)
2002年埼玉生。梓俳句会会員、未来短歌会会員。第12回星野立子新人賞、第70回角川俳句賞佳作。
【管理人より】ハイクノミカタ(2025.1月-2月)連載分もお見逃しなく!(全8回)
