嵐の埠頭蹴る油にもまみれ針なき時計
赤尾兜子
赤尾兜子と言えば、〈音樂漂う岸浸しゆく蛇の飢〉がもっとも有名である。兜子が創刊した渦俳句会が出版した「鑑賞赤尾兜子百句」(平成6年刊行)は、阿波野青畝をはじめ百人による兜子の一句鑑賞をまとめたものである。
兜子自身の自句自解の稿があり、音樂の句については、「この作は書けてしまってからひとり歩きをはじめた」としている。音樂の句は、句集「蛇」に入っているが、いま読むべき一冊であると思う。現代俳句協会と俳人協会が分裂するきっかけとなったエポック的作品、あるいは、前衛俳句という腑分けをされるかもしれないが、そういった先入観はとりあえず横に置いてほしい。音樂の句付近の緊密に構成された句が立て続けに連なった後半部分は特に緊張感の高まりがあり、他の句集ではなかなかみられない。
掲句も一読意味を摑むことは難しい。嵐の埠頭に(作中主体が)油まみれの針のない時計を蹴っている、のか。あるいは、嵐の埠頭を擬人化と見て、嵐の埠頭が油まみれの時計を蹴っているのか。「油にもまみれ」の「にも」からすれば、ほかに何にまみれているのか、油にまみれた針のない時計はメタファーか、そうであれば、その暗喩するところは何か、疑問が多く浮かぶ。
ところで、前記の「鑑賞赤尾兜子百句」において、金子兜太は、音樂の句を「音樂漂う」は不要で、「岸浸しゆく蛇の飢」だけのほうが鋭く、「そのまま兜子の精悍で傷みやすい内面を思い出させる」と評した。これに倣えば、「油にもまみれ」がなく、「嵐の埠頭蹴る針なき時計」のほうが鋭い、と思う。しかし、さらに金子は、「音楽漂う」のようなリリシズムを捨て切れないところに、兜子の〈可能性〉と〈溺れ〉があると指摘している。
鋭さは、都会の乾いた空気のように知覚にとどまらないこともある。「油にもまみれ」のぬるりとした生々しい感触に見られる兜子独特の情緒によって、一句が心の襞に拭えないものとして残っている。
(小田島渚)
【執筆者プロフィール】
小田島渚(おだしま・なぎさ)
「銀漢」同人・「小熊座」同人。第44回宮城県俳句賞、第39回兜太現代俳句新人賞。現代俳句協会会員、宮城県俳句協会常任幹事。仙臺俳句会(超結社句会)運営。
【小田島渚のバックナンバー】
>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
>>〔1〕秋の川真白な石を拾ひけり 夏目漱石
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