少年や六十年後の春の如し 永田耕衣【季語=春(春)】

少年や六十年後のの如し

永田耕衣

 俳句ってなんだろう

俳句をはじめてから、ずっと考えている。

 季語があって575ならとりあえず俳句。

 それはそう。

 キレが大事、季語が大事、自称すれば俳句、形式、マインド。まるで流派のように俳句ってなんだろうの答えはあるし、答えなんてないのかも。どう思ってもいいじゃないか。自分だけの答えがあればいいじゃないか。

 それはそう。

 それなのに俳句ってなんだろうとあらためて立ち止まらせる句に会うことがある。

 永田耕衣のこの句に行き会うたびに、わたしは俳句の不思議さに胸打たれる。

 ルビンの壺の絵の中で同時に見ることが出来ない壺と向かい合った横顔。決して完全体として把握出来ないのに、あるということは知っている何か。見る人はまなざしを固定して全てを把握することができない。この句もそうだ。

 少年という存在を、や切れによって世界から切断する。その切断面の中で少年が向かい合うのは60年後の春だ。決して出会うはずのない両者が向き合わされる。しかも如しという比喩によって、両者の出会いは常に揺らぐ。少年と60年後の春を同時に見ることは出来ないのだ。この揺らぎの運動に私たちは巻き込まれる。

 と、これ以外にも読みが成立する。それは、この句の中の主な3つの要素のどの言葉に注目するかによって、この句は万華鏡のように読みを変えていくからだ。春、少年、六十年後、の三つである。

 この注目する言葉によって句の見方が変わると読みが変わる様子を試しに図式にしてみよう。「→•←」こんな感じだ。真ん中が注目ワードになる。そしてそこに向かいあう二つの要素が入れ替わっていく。

少年→六十年後←春

六十年後→春←少年

春→少年←六十年後

 六十年後に注目し、少年と春がその六十年の中に表れるとするなら、そこにいるのは老人だ。六十年という時間の経過が中心だからだ、この場合少年は老人にとって過去の自分である。

 春という時間が中心ならば少年から老人へという人間の変化そのものを感じることになるだろう。春もいう季節は繰り返すけれども常に新しい、螺旋状に進んでいくその観測点としての六十回の春。

 少年に身を開けば、まだ見ぬ未来を思う句になる。春と六十年後が少年の中で出会うからだ。

 読者の眼差しの位置によって変容するこの句は、未完成なのではない。十二分に完成した上で、句を詠むという不確かさの体験を読者に手渡しているのだ。

 ここまで書いてきて改めて思う。やばいな耕衣、俳句について天才過ぎる。これ多分わかってやってる。にゅるにゅるした俳句ってなんだろうの問いを笑っている。笑われたらもうしょうがない、一緒に笑うしかない。

 でも、あきらめずにこれからも頑張って考えたり書いたり詠んだりしますよ、俳句。

 だって楽しいから。

 俳句四季の5・6・7・8月号の俳壇ラウンドスケープのコーナーを担当します。見開き1ページを使って4か月を使い切って、ポップに、でも俳句の最深部の触れるような連載にしたいです。読んでほしい。そしてうなずいてくれたり、首をふったりしてほしい。ひとはYESよりNOの方に自分の考えが乗ることが多いから。

 あと、今回途中で出てきた謎の「→・←」の図式は、実は、私が考えた俳句を語る新しい語彙体系の核なんです。そろそろ俳句を語るあたらしい語彙欲しいなと思って、用意してみました。こそこそ使ったり、今後チャンスがあれば発表したりします。興味ある人は個人的に連絡いただいでも大丈夫です。

 ハイクノミカタ二か月間の連載、ありがとうございました。とても楽しかったです。

吉川千早


【執筆者プロフィール】
吉川千早(よしかわ・ちはや)
長野県安曇野市在住
」同人 俳人協会所属
第10回新鋭評論賞受賞
・E-mail:chihayayosikawa@gmail.com
・X @chiyochihaya



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