五 「残影」―結晶論―
本句集を一冊の作品として捉えるとき、その全体を貫くものとして「残影」という語に注目したい。「残影」とは、単に過ぎ去ったものを回想するための像ではない。本句集においては、目の前にある対象を凝視し、その瞬間に生じた微細な発見を写生によって定着することによって、対象が消えた後にもなお残るものを捉える働きとして現れているのではないか。したがって「残影」は、作品の主題であると同時に、本句集の句作そのものを支える方法でもある。
一、二章では、自然界の細部が次々と発見される。〈景色より先に毛虫が目に入る〉〈翡翠を見しより風の見えてきぬ〉〈コスモスに近づく耳の澄んでくる〉などの句では、一つの対象に目を向けることが、それまで意識されていなかった別の存在や感覚を呼び起こしている。ここでの写生は、対象をそのまま写し取ることではなく、対象を契機として世界の別の相を発見する行為となっている。さらに、蟻や蟬など同一の生物を繰り返し詠む句の集積からも、作者が一度の発見で対象を消費するのではなく、同じ対象を見つめ続けることで、その都度異なる姿を引き出していることが分かる。
三章「魚族の目」では、この「見る」という営みがさらに深化する。〈魚族の目なべて冬青空の色〉〈剥製の鹿と目の合ふ〉〈見つめられ潜る外なきかいつぶり〉など、ここでは人間が自然を見るだけではなく、自然の側から人間が見返されるような場面が現れる。〈鳰潜るたび日輪に小さき穴〉では、一羽の鳰の動きが巨大な日輪の見え方を変える。対象はもはや人間が一方的に把握するものではなく、それぞれの生き物の存在によって異なる相貌を見せるのである。写生は対象の外形を捉えるだけでなく、対象との関係のなかで生じる知覚そのものを捉える段階へと進んでいる。
四章「一本の草」では、その世界が動き始める。〈一本の草の周りの雪解かな〉という章題句において、季節という大きな変化が「一本の草」の周囲から始まるように捉えられていることは象徴的である。〈蛇穴を出づしばらくは日にあたる〉〈四肢も尾も青くなりゆく蛙の子〉など、生命が変化しながら春へ移行し、さらに〈人の顔ばかり見てゐる入学子〉〈新社員がぶがぶ水を飲んでをり〉と、人間もまた新しい時間へ踏み出してゆく。自然と人間は別々の対象として置かれるのではなく、ともに時間の中で動き、変化する存在として捉えられている。
そして最終章「花下残影」において、これまで個別に発見されてきた自然と人間の営みが、桜という一つの場へと集約される。〈花めぐり荷よりも小さき児を連れて〉〈小学校中学校とさくら狩〉〈どの花の下で弁当開かうか〉〈花下の紙芝居に小さき人だかり〉など、桜の下にはさまざまな人間の生活が展開される。しかし、その「集い」は完全な一体化ではない。〈弁当を広ぐ桜に背を向くる〉〈花を見るひともくもくと走る人〉〈こんなにも桜と人とゐて独り〉と、同じ花の下にありながら、人間はそれぞれ異なる方向を向いている。自然と人間との距離が縮まる一方で、その距離を完全には失わない人間の孤独もまた現れているのである。後半では、満開の桜が散り始めることで、「残影」という言葉が具体的な形を得る。〈大方は散りくつきりと花の影〉では、花そのものが失われることによって、かえって「花の影」がくっきりと現れる。〈花を背にすれば殺風景な街〉〈散る花に後ろ姿の人ばかり〉においても、目の前から失われてゆくものの代わりに、その痕跡や余韻が残される。そして最後の〈残花より又もひとひら尚ひとひら〉では、散り尽くすはずの花がなお一片ずつ残り続ける。
この構造を踏まえるならば、「残影」とは消失したものの後に偶然残るものではなく、消えてゆく過程まで含めて対象を見つめたときに、句の中に凝縮されるものであると言える。写生によって捉えられたのは、対象の姿に限らず、そこに流れていた時間、その場にいた人間の営み、そして対象を見た際に生じた心の動きまでもが、明示的に説明されることなく一句の内部へと析出しているのである。
ここに、本句集を「結晶」として捉えることの意味があるのではないだろうか。一、二章で無数の対象が発見され、三章で「見る」という行為そのものが問い直され、四章で生命と人間の世界が動き出し、五章でそれらが桜の下に集い、やがて散ってゆく。個々の句は独立した一景でありながら、それらが四季の時間と配列のなかで積み重なることによって、一句だけでは捉えきれない大きな時間の層が形成されているのである。その集積の果てに現れるのが「残影」であり、その「残影」こそが、一冊の句集として結晶したものだと考えられる。
したがって、本句集における自然の細部を見つめることから始まった視線は、見る主体と対象との関係を問い、生命の動きと人間の営みを捉え、最後には、過ぎ去るもののなかに残されるものへと到達する。〈残花より又もひとひら尚ひとひら〉という結句は、その到達点であると同時に、句集そのものの姿でもあろう。ほとんどすべてが散ったあとにも、なお一片が残る。その一片とは、失われてゆく世界を見つめた視線が、俳句という形に結晶させたものである。本句集における「残影」とは、まさにそのようにして、流れ去る時間のなかから掬い上げられた世界の一片なのである。
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