死がふたりを分かつまで剝くレタスかな
西原天気
(『けむり』)
教会の結婚式での夫婦の誓いの言葉は、ドラマや映画などの場面で耳にすることがある。有名なのは、「健やかなるときも、病めるときも」とか「死がふたりを分かつまで」とか「堅く節操を守ることを誓いますか」とかいうフレーズである。とあるキリスト教研究者の解釈によれば、「死がふたりを分かつまで」は、裏を返せば、どちらかが先に死んだら貞操を守る必要はないということでもあるらしい。
日本の貞操観念は中世の封建社会の頃に遡る。ただし、相手に尽くし、貞操を守ることは、妻だけに求められた観念である。夫は、家の血筋を絶やさないため、側室を持つことが多かった。主君に対しては、「武士は二君にまみえず」の教えを守り、心の貞操を貫き通した。妻にとっての主君は、夫であるため、夫が死んでも再婚を躊躇うことがあった。戦国時代には、下剋上もあり、妻もまた離縁して他の人に嫁ぐことがあった。江戸時代になると、妻には姦通罪が適応され、間男ともども罰せられた。明治期に入り、キリスト教の一夫一妻制の思想が導入され、結婚後の浮気は罪なこととされたが、しばらくの間は夫が妾を持つことは暗黙されていた。現在では、配偶者以外との恋は不倫とされ、離婚の理由となる。
封建制度以前の平安時代や奈良時代の夫婦関係は身分によって異なるが、結婚後の女性の浮気が罪に問われることはなかった。ただ、独占欲や嫉妬の感情は双方にあり、一途な恋が求められた。男女ともに運命の人と添い遂げるのが理想とされた。仏教思想の影響により、来世の契りも約束した。
その考え方は、現在でもあるのではないだろうか。結婚は、「死がふたりを分かつまで」という期間限定の約束ではなく、来世までの約束を意味する。かといって、どちらかが先に死んだ場合の再婚を妨げるほどの効力はない。愛していれば、相手の幸せを望むものだ。日本人の結婚の誓いは、「生きている間は一緒にいよう。死などによる別れがあっても、来世もまた夫婦だよ」という遥かなる約束なのだ。輪廻転生の考え方がないキリスト教の誓いとは少々異なる気がする。
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