
海の日を遠くに踏絵ありにけり
山下しげ人
今週も「絵踏」という季題について考えておりました。
史実である「絵踏」は、現代に生きる俳人にとって、どのような季題なのかを追っています。
掲句の「海の日」が、まず光として立ち上がってきます。
海とともにある、根源的な明るさです。
その光と「踏絵」とが一句の中に置かれることで、静かながら大きな構図が示されていると感じました。
「海の日」という絶対的な神の光、
「踏絵」という人間の罪や歴史、
この二つの間には、測りがたい距離が置かれています。
その距離は単なる遠近ではありません。
数百年という時間の隔たりであり、信仰と現実のあいだの精神の距離であり、人間の営為とそれを包む存在とのあいだの隔たりでもあります。
「遠くに」という措辞は、踏絵という出来事を単なる歴史の一場面としてではなく、光との関係の中に置き直す働きをしています。
もし「海の日」を海に昇る太陽として読めば、新たに始まる光の中に、過去の行為としての踏絵がかすかに残されている構図とも言えます。
沈む太陽として読めば、一日の終わりの光の彼方に、人間の行為の重さが静かに沈んでゆく感触が生まれるでしょう。
しかしこの句の光は、特定の時刻に限定されるものではないと、私は感じました。
昇るとも沈むとも定められない絶対的な光として読むとき、「海の日」は人間の歴史を超えて在り続ける存在となります。
この句では神そのものが直接描かれてはいません。神は姿として現れず、「海の日」という光として示されているように思います。
踏まれたはずの神は消え去ることなく、遠く、光として存在し続けています。
その前では、踏絵という出来事すら「遠く」に置かれざるを得ません。
掲句は、光と行為のあいだの深い隔たりを静かに示しています。
『ホトトギス』平成十二年七月号 所収。
(菅谷糸)
【執筆者プロフィール】
菅谷 糸(すがや・いと)
1977年生まれ。東京都在住。「ホトトギス」所属。日本伝統俳句協会会員。

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