新月や蛸壺に目が生える頃 佐藤鬼房【季語=新月(秋)】

この特異性は、タコの「身体」を考えるときさらに深まる。というのも、脊椎動物において基本的に脳に集中しているニューロンは、タコの場合その半分以上が腕に分散している。これによって腕一本一本があたかも「自分で考えている」かのように動くことが可能になっている。そして、タコの体は極めて柔軟である。目やくちばしといった固い部分以外はほとんど自由に、極端に変形させることができる。こうなってくると、脳と身体を別々にとらえてその関係性や心のしくみを考えるという、従来の認知科学の枠組みそのものを、根本から問い直さざるを得なくなる。

これらの事実は、哲学における「心とからだはどのように結びついているのか」という古典的な「心身問題」に新たな光を当てている。タコは、ヒトを中心として構築されてきた知性や内面、心、意識の理論モデルを、根底からくつがえしうる不思議な存在なのである。

……というのが、『タコの心身問題』の大まかな内容である。さて、どうだろうか。

どうだろうかというのは、この本そのものの内容ではなく(こっちにも興味を持ってもらえると嬉しいのだけれど)、掲句に対するイメージがどのように新たな奥行きを持って見えてくるか、という点についてである。

僕は『タコの心身問題』が好きすぎるせいもあるのか、この句にどうしても、人間とは異なった「孤独」を抱く心の持ち主の存在を思ってしまう。それは人間同士の結びつきの難しさやむなしさに由来する孤独ではなく、心の起源の謎そのものに触れるような孤独である。

「蛸壺」それ自体は人工物だから、ここには間接的にタコと人間との関わりが生まれているとも言える。しかし、そのことはタコには知り得ない。タコにとってちょうどいい広さを持つその容れ物は、捕食者から身を隠し心を休めるための、あくまでかりそめの宿にすぎない。

新月の海の闇の中の、蛸壺というさらなる闇の中で、タコの意識はどのように働くのだろうか。これが百歩譲って犬や鳥ならまだなんとか類推できるかもしれないが、所詮「脊椎動物」の心でしか考えられないわれわれには、タコの心の論理は到底理解し得ない。

だが、その理解のとどかない蛸壺の闇の中から、あるとき「目」が生えてくる。目は光を捉えるための器官であると同時に、タコにとってほとんど唯一の「かたちを失わない」部位である。とするならば、「蛸壺に目が生える頃」とは、裏を返せば、蛸壺に入ったタコの目以外の部分が、ほとんど「かたち」として識別できなくなってきた状態、とは読めないだろうか。蛸壺の闇の中に、だんだんと不定形の孤独が充満しはじめる。と同時に、残された目だけがかたちを保ち、新月のはかない光を捉えようと海中へ伸びだすのである。

掲句は『佐藤鬼房の百句』(渡辺誠一郎著、ふらんす堂、2021年)より引いた。原句は第八句集『何處へ』(現代俳句叢書、1984年)所収。

田中木江


【執筆者プロフィール】
田中木江(たなか・きのえ)
1988年: 静岡県浜松市生まれ
2019年: 作句開始
2023年: 「麒麟」入会 西村麒麟氏に師事
2024年: 第1回鱗kokera賞 西村麒麟賞 受賞
2025年: 第8回俳句四季新人奨励賞 受賞



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