葛咲くや嬬恋村の字いくつ石田波郷【季語＝葛の花（秋）】

ハイクノミカタ

葛咲くや嬬恋村の字いくつ　石田波郷【季語＝葛の花（秋）】

2023/9/5
ハイクノミカタ, マンスリーゲスト
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葛咲くや嬬恋村の字いくつ

石田波郷

いよいよ9月です。

お子様のいらっしゃるご家庭は、新学期を迎えてホッとしていることでしょう。拙宅も慌しい毎朝が戻ってきて、一息つきつつも新しい忙しさが始まっている感じです。それにしても朝晩はだいぶ過ごしやすくなりましたね。

私事で恐縮ですが、夏休み期間中は子どもを連れてあちこちへ出掛けました。とりわけ群馬の嬬恋へのキャンプ行は、大変充実した思い出深いものになりました。さすがの猛暑で思ったより日差しは強かったのですが、やはり空気は澄んでいました。山中のキャンプサイトはロープで区切られただけの平地サイトに比べて広々としていて実に開放的。子ども達はたくさん駆け回り、存分に虫捕りができたでしょう（父は酒ばかり飲んでほとんど寝ていましたが…）。

そして嬬恋といえばキャベツ。キャンプ場へ向かう途中、いくつもの字をぬって車を走らせましたが、広大な山裾には見渡す限りにキャベツ畑が広がっていました。本欄を担当した初回に故郷の平野に広がる田んぼのことを書きましたけど、それに劣らないくらい実に雄大で見事な景。綺麗に等間隔に整列したキャベツは、まるで大地に描かれた美しい紋様のようでした。車窓に見惚れながら、いったい回鍋肉何杯分？と思ったり（ロールキャベツでもいいですけど）。

さて、今回はその嬬恋の句です、再度石田波郷に登場してもらいます。

葛咲くや嬬恋村の字いくつ　石田波郷

筆者が嬬恋を訪れたのは8月上旬でしたので、パッと見た感じでは、葛の花は見当たりませんでした（ちゃんと探したわけではないですが）。掲句はとうやら夏の終わり頃の句です。

現在は全国的な大合併で面積の大きな市町村が増えましたが、当時は近世の村落社会を引き継いだ行政区分が残っていた時代です。その当時に嬬恋は一村が一郡の大きさがあるといわれていたそうですから、今も昔もその広大さは変わらなかったようです。

このとき作者はひと夏を避暑地で過ごしたあき子夫人の妹の迎え役を引き受け、草津に向かっているところでした。その前に軽井沢、沓掛（中軽井沢）、鹿沢に遊んでおり、掲句はその際に句友と嬬恋の字々を徒歩で通り抜けたときの句だとか。

嬬恋は標高のある土地でもともと涼しいですけれども、「葛の花」が一層の新涼と野趣を感じさせます。この頃の句は昭和18年に刊行された『風切』に収録されています。掲句自体は昭和17年8月の作。前年12月に既に太平洋戦争は開戦していましたが、世相には多少の余裕があった頃でしょう。作者は同年6月に結婚したばかり。定職には就かず、「馬酔木」の編集と同人を辞して、創刊間もない「鶴」に精魂を傾けていた時期でした。〈朝顔の紺のかなたの月日かな〉などもこの頃の句です。

作者の年表を見ると、生涯に何度か上信両州へ遊んでいます。病を得る前の若々しくいかにも健やからしい作者が、大きな足でのしのしと大自然を闊歩する様子が眼前するようです。作者の後年の病を知る我々読者は、運命の残酷さというのをかなしまざるを得ません。

（吉田哲二）