晩秋の光の道を進むのみ 高浦銘子【季語=晩秋(秋)】


晩秋の光の道を進むのみ

高浦銘子

 銀行強盗の人質になったことがある。就職を決めずに大学を卒業してしまった私は、突然に、そうだシチリア、行こうと思い立った。当時のシチリアは治安があまり良くない、英語もあまり通じないらしいという話だったので、しばらくイタリア本土で身体を慣らししてから一気に南下する計画を立てた。街を移るたび、自宅宛てに必ず絵葉書を書くのが両親との約束だった。万が一の時、消息を絶った街を特定するためである。アナログだ。

 そうしたわけでフィレンツェ、その日の私は銀行で日本円からイタリアリラに両替をしていた。金額は4万円、1週間くらいの軍資金だった気がする。手続きが済んでカウンターのリラをバッグにしまおうとしたら、背後よりヒュッと人影、あ、と思った時には羽交い絞めにされていた。こ、これは。行内が緊迫して誰かの悲鳴が上がった。まちがいない、いやもう、最初からまちがいないんだけど銀行強盗でまちがいない。強盗の男はナイフをぐっと私のコートに押し当て、銀行の人に向かって「金を出せ!」と叫んでいる。カッターナイフより若干立派程度の錆びついたナイフ。強盗の道具としては心許ない、頭の隅でそんなことを思った。

 お金はなかなか出て来ない。焦ったらしい強盗は、ナイフの位置をスライドさせた。首筋に刃物、ダイレクト刃物、これは本気で怖いです。頸動脈からプシューッと血を吹く自分を想像してしまう。「あいゆ~~~と・・・」と蚊の鳴くような小さな声が出た。助けて、と。ああ今私は、命乞いをしている。このような時に、正しく片言のイタリア語を捻り出してきた自分が滑稽だった。というか早く、お願い、お金渡して。私まだ、シチリアに上陸してもいない。お願い、あいゆ~~~と!

 実際には、ほんの数分のことではなかったか。強盗はその場にあった私のリラだけを掴み、正面玄関から転がるように飛び出していった。私はへなへなとその場に座り込み、銀行の人や周囲にいたお客さんにわっと取り囲まれた。大丈夫か、怪我はないか。年配のご婦人が大袈裟に抱きしめてくれた。今思うと、人生で最大の映画的瞬間だった(かもしれない)。銀行の人は、改めて4万円分のリラを手渡してくれた。盗られたお金は戻らないと思っていたので嬉しかった。「ぐら~つぃえ」と私は言った。

 その後、事情聴取のためにフィレンツェ市警に連れて行かれた。生まれて初めてのパトカーに、まさかイタリアで乗るとはね。「イタリアーノかイングレーゼか?」うわぁ、英語の方がまだマシかなぁ。ところがである。ただでさえ英語苦手なのに、頭の中が興奮しすぎて口パクパク状態になってしまった。まずいまずい。えーと、紙とペンください。私英語話せませんけど、英作文ならわりと得意ですので。カリカリカリカリ・・・はいどうぞ。警察官は、私が一生懸命書いた書類を見てプッと笑った。あれ、傷ついたなぁ。

 そうこうしているうちに、何と犯人が捕まった。確認の手続きが必要とのことで、今すぐ再対面するように言われる。そこには初老の男性が、ひとりうなだれてくたびれていた。生活するお金に困ってやったのだと聞いた。そうだと思う、全然手慣れてなかったもの。日本から来た私は、職なしとは言え(アルバイトの末に)こうして自由気ままな旅を楽しんでおり、彼はたった4万円のために罪を犯し、あっけなく捕まってしまった。刺すつもりなんて最初からなかったかもしれない。あのしょぼくれた刃物を思い出して、私は何とも複雑な気持ちになった。

 もう帰ってよろしい。帰りはパトカーで送ってもらえないようだ。最後の最後、いかつい警察官が私の顔を覗き込んで言った、「このことを誰にも話してはいけない、ノオオオオオ。フィレンツェは安全な街だ」。あれはどういう意味だったのだろう。今思えば、速攻で日本大使館に連絡すれば良かったのだが、当時の私はそこまで頭が回らなかった。怪我ひとつしなかったしお金も戻ってきた。まだ旅を続けられる、それだけで十分だった。外に出たら、フィレンツェはいつものように観光客の喧噪と、まばゆいほどの晩秋の光にあふれていた。昔語り、おしまい。

 *

 高浦銘子さんの句集『百の蝶』(ふらんす堂)は2016年10月初版。ちょうど10年前の本である。めくってもめくっても好きな句に出合う。とても美しくて、しんと張りつめてあたたかい。どこかへ連れ去られてしまう。気づくと涙ぐんでいる。銘子さんの句は真似ができない。ひとつひとつの言葉が平明で、平穏で、どこにキィがあるのかまるでわからないから。私はずっと、ずーっと一ファンである。

(荻野ゆ佑子)


【執筆者プロフィール】
荻野ゆ佑子(おぎの・ゆうこ)
1977年生まれ。1997年「藍生」入会を経て、2020年「銀漢」入会。「ソウル俳句会」帰国会員。句集『みお』(2026年、ふらんす堂)。


◆自選十二句
この良夜どちらがどちら見送るか
鶏一羽炊いてソウルの雪深し
ちちははといもうとのゆめ遅櫻
十畳の荒野ありけり寝冷の子
蟻といふけなげなものを振り払ふ
香り立つ文鎮として青蜜柑
どんぐりを拾ひをりしが謎拾ふ
袴にもまつはる紐や七五三
絨毯の鳳凰の目を踏まぬやう
薄氷はみづの瘡蓋かもしれぬ
白梅を褒めむ淋しき吾子褒めむ
雛段の雪崩るるごとし飛騨泊


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