青空の黒い少年入ってゆく
平田修
(『闇の歌』昭和六十年ごろ)
掲句には違和感がある。勿体ぶらずに言えばそれは「の」にあるわけだが、その違和感は我々が日本語の羅列を見た時に”文意”があるものとして捉えようとしてしまう無意識の反射によって生じる。つまり、〈青空の黒い少年入ってゆく〉という文字列を見た時に「入ってゆく」という動詞を認めるや否や、私たちの脳は”主語”と動詞〈入ってゆく〉の対象となる空間”を探し始める。なるほど主語としては〈黒い少年〉が担っていることが分かる。そしてどうやらその少年が入っていく空間は青空であり、青空”に”入っていくのだろう…と推定する。こうした言語的な知覚は俳句の読解方法などのはるか前方で、コンマ数秒という水準で行われるものである。そうした一瞬の本能的読解を終えたあとで、わずかな咀嚼の時間を経て、「青空の」というフレーズに潜む文法的違和感を認知する。
少年は青空と同化しているのか。あるいは、青空に時折見える黒い点(それはしばしば、網膜上の異物であることが多いとしても)のような存在であるのか。いずれにしても少年は青空という概念を自らの属性とし、それを携えて今見えている空間とは異なる何らかのエリアへと入っていく。少年が視界から徐々に消えていき、やがて見えなくなる。これは他方から見れば「侵入」であるかもしれず、そうした読みの可能性を浮かべた際に想起せざるを得ない句がある。阿部完市の〈少年来る無心に充分に刺すために〉である。
平田句がどこかに入ってゆく(=消えてゆく)少年を描き出すものであるとしたならば、少年がこちらをまっすぐ見つめながら近づいてくる完市句はある種真逆の作品であると言える。単に描写されているものが正反対であるというだけでなく、句が纏うニュアンスも不思議な対比関係にある。完市句が近づいて来る少年の映像によってその背景へのピントを徐々にぼかしていく”収縮”のニュアンスを持つとすれば、平田句は青空と一つになった少年がどこかへ入って消えてしまうことにより背景が今一度大きく映し出されるという”拡散”のカメラワークによって描写されている。掲句が寂しさや切なさだけでなくどこか妙な晴れやかさを内包するのは、その展開と構図の妙であるというべきか。
(細村星一郎)
【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。
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