ハイクノミカタ

アルプスの雪渓見えてくる離陸 稲畑汀子【季語=雪渓(夏)】


アルプスの雪渓見えてくる離陸

稲畑汀子
(『稲畑汀子俳句集成』)

「アルプス」という措辞は、筆者からみるとけっこう大胆な省略。なぜなら、アルプスの名を冠する山脈は日本だけでも複数の県にまたがって長く延びているので、ひとまず一読してこれはどこの空港?となってしまうから。そもそも「アルプス」はもちろん本家本元があり、その他欧州やオセアニアの「○○アルプス」までいれればけっこうな数がある。掲句は、それってどこ?という比較的素朴な地図的空間把握を切り捨てていて、たぶんそういうのが一切気にならないような人の詠む句なのでは?と思ってしまった。しかし、そうやって大胆な省略をすることで、体が宙に浮き上がってすぐに山と雪渓が見えてくるような、空港から飛行機で、というより、山間のヘリポートからヘリコプターで、というくらい景へ肉迫する短時間に視覚の得た感覚が抽出されているようにも見える。

しかし、自分は大雑把ながら地理的になにがどこにあるのかが気になってくるほうなので、やはり少々もやもやは残る。たとえば羽田から帰省する日が好天で窓際の席になっていると、飛んでからたいして時間がかからず「アルプスの雪渓」らしきものが見えてくる。ほかにも、さまざまな気になる地形、人工物を目にするのだけれど、飛行機はずんずんと進んでいくから、席のモニターに映し出される大雑把な飛行コース図と、頭の中の日本地図を照らし合わせてこれは南アルプスのこの辺だろうか、などと目星を付けてその後Webで地図の航空写真から確認したりする。そういう感覚からすると、「アルプスの雪渓」はノーヒントなのである。続く、「見えてくる離陸」で山近い空港なのだろうか、ということを類推するのが関の山で、これが日本国内のことだと限定すればどこの空港か感覚的にわかる人にはわかるのかも知れないが、筆者にはさっぱりわからない。

掲句は『稲畑汀子俳句集成』から抜いたが、第五句集『さゆらぎ』所収。90~93年の作句を収めたもの。カーナビ普及前の時代で、掲句のすぐ近くに「ハンドルの汗を拭ひて地図を見る」があるので、やっぱり地図を頭にいれておきたいタイプの人ではなさそうかな、と勝手に想像してしまう。

橋本直


【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。


橋本直さんの第一句集『符籙』はこちら】


【橋本直のバックナンバー】

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>>〔137〕黒鯛のけむれる方へ漕ぎ出づる 宇多喜代子
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>>〔135〕大揺れのもののおもてを蟻の道 千葉皓史
>>〔134〕銀河系のとある酒場のヒヤシンス 橋 閒石
>>〔133〕春の日やあの世この世と馬車を駆り 中村苑子
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>>〔38〕草田男やよもだ志向もところてん    村上護
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>>〔27〕鳥の巣に鳥が入つてゆくところ   波多野爽波
>>〔26〕花の影寝まじ未来が恐しき      小林一茶
>>〔25〕海松かゝるつなみのあとの木立かな  正岡子規
>>〔24〕白梅や天没地没虚空没        永田耕衣
>>〔23〕隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな  加藤楸邨
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>>〔20〕ふゆの春卵をのぞくひかりかな    夏目成美
>>〔19〕オリヲンの真下春立つ雪の宿     前田普羅
>>〔18〕同じ事を二本のレール思はざる    阿部青鞋 
>>〔17〕死なさじと肩つかまるゝ氷の下    寺田京子
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