ハイクノミカタ

黒鯛のけむれる方へ漕ぎ出づる 宇多喜代子【季語=黒鯛(夏)】


黒鯛のけむれる方へ漕ぎ出づる

宇多喜代子
(『宇多喜代子俳句集成』)

故郷の家のすぐそばに潮の上がってくる川があって、子どもの頃に釣りなどをしてさんざん海や川に親しんで育ってきた経験からの勝手な印象なのだけれど、その頃黒鯛は防波堤などで時折釣れることはあっても、陸から見える範囲で泳いでいる姿を簡単に目にするような魚ではなかった。けれども、どういうわけか昨今では、なんということはない場所でけっこうなサイズの姿を見かける機会が増えている。例えばそれが帰省した時の地元の川の河口付近とかならまだしも、浜離宮恩賜公園のお掘の橋の下とかだとちょっと驚いてしまう。そもそも黒鯛とか鱸などはふつうに汽水域に上がってくる魚であるし、そうやって人の目にとまることのほうがむしろ魚の生態としてはより「自然」な姿なのかもしれないが、東京湾では温暖化で数が増えたという話もあって、最近では養殖海苔の食害が問題になってきているらしい。

ところで、日本人がもっとも高く評価する魚である「鯛」(真鯛)は、漁法(「鯛網」:春)とか、婚姻色を帯びる産卵期と花見の季とが重なるところからついた呼称(「桜鯛」「花見鯛」:春)などが季語であるものの、どういうわけか単体のままでは季語になっていない。同様に高評価だったり、日本の食文化になじみの深い魚類である鮪(冬)や鰤(冬)や鮭(秋)や鰹(夏)は単独で季語であり、石鯛(夏)とか疣鯛(夏)とか舞鯛(冬)とか甘鯛(冬)とか、鯛と名がつくものの見るからに鯛ではない魚たちが単独で季語になっているのに、どうして「鯛」は季語にならなかったのだろう。不思議である。その点で言うと「黒鯛」は、色以外は見たところマダイそっくりなのだけれど、旬とされる夏が季語とされている。

さて、掲句は、生態として河口などの浅いところへもやってくるこの黒鯛が、動く人(あるいは舟)の気配を感じとって、居た場所からさっと沖へ逃げた時の鰭の動きで舞い上がった泥を、まず「けむれる」と表現したのであろう。そして「漕ぎ出づる」という表現で、その黒鯛を脅かしたもの、つまりこの句の視点の人物の乗っているのが手漕ぎの渡し舟であることを想像させる。つまり、黒鯛のまさに黒鯛らしいふるまいと、水辺に生きる人間の生活のたたずまいが一句の中にきちんと無駄なく収まっているように思われる。そして、そのような魚の生きた姿を詠んだ句は案外に少ないのでないか、とも。

橋本直


【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。


橋本直さんの第一句集『符籙』はこちら】


【橋本直のバックナンバー】

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